音楽との出会い

私は1924年(大正13年)東京は深川の生まれで、家業は酒屋でした。
男ばかり3人兄弟の真ん中です。

子供の頃から運動音痴で、野球のルールさえ知らなかった私に、音楽の才能があると見込んでくれたのは、日大一中時代の恩師、音楽の斎藤太計雄先生でした。
見よう見まねで始めたピアノでしたが、斎藤先生は私が専門家の先生について、本格的に音楽の勉強をすることを父に勧めてくれたのです。

しかし、明治生まれの頑固者の父は、「音楽など女子供のやるものだ!」と言って猛反対しました。
私はすっかり落胆し、食欲もなくすほど元気を失ってしまいました。
そんな様子を見て母はひどく心を痛め、とうとう頑固者の父を説得してくれたのです。

しぶしぶ了承した父でしたが、私が並々ならぬ熱意で音楽に取り組む姿を見て、やがて理解を示してくれるようになりました。
そして、戦時中の物のない頃に、グランドピアノのスタインベッヒ(ドイツ製スタインウェイ)を買ってくれたのです。
しかも、レッスン料の高い有名な作曲家の先生にも通わせてくれて、音楽の勉強に励むことができました。
また、ピアノは戦災にあう前、長野の疎開先で大切に保管してくれるなど、父からは大変な恩を受けました。

それなのに、どうしても価値観が合わず、亡くなるまで親しく酒を酌み交わすこともありませんでした。
今思うとそのことが大変悔やまれますが、今さらどうにもならずとても残念に思っています。

クラシック音楽との出会いは、実は兄の影響でした。
兄は、SPレコードでベートーヴェンの全交響曲を揃え、繰り返し聴いていました。
その影響からか、ひとつ屋根の下にいる私も自然にクラシック音楽に親しむようになりました。
やがて、ウィーン帰りの作曲家・細川碧さんから個人レッスンを受けるようになり、ついに作曲家を志すことになったのです。

ちなみに、兄(斎藤貫一)は音楽家にはなりませんでしたが、弟(斎藤鶴吉)は私と同じく音楽の世界に入り、後にNHK交響楽団のチェリストになりました。
兄はベートーヴェン派でしたが、私はもっとロマンティックな作曲家を好みました。
例えばシューベルト、シューマン、ショパン、近代の作曲家ではラフマニノフやドビュッシーです。
一方、いわゆる前衛音楽には共鳴できませんでした。
劇伴の仕事で「ここは前衛音楽風に…」などと言われると、それらしく書いたりもしますが、そうした音楽にはあまり共感を持てません。

自分が作曲家として何かを表現したいと思うときに、不協和音は私の脳裏には浮かんでこないのです。
好奇心旺盛だったはずの学生時代を振り返ってみても、芥川君(芥川也寸志)や奥村君(奥村一)はかなりモダンな音楽を書いていましたが、私はモダンなスタイルは駄目でした。
私はその頃からずっと、彼らとは違う種類の音楽を書いてきたのです。
でも、そのおかげで小津監督には気に入って頂けたのですから、世の中何が幸いするかわかりませんね。

≪前へ          次へ≫

Translate »