戦後のこと

時は1945年(昭和20年)5月でした。
3月10日の東京大空襲で牛込の戸山学校は全焼し、軍楽隊は焼け残った浅草橋の日本橋高等女学校の1階に仮住まいしていました。
その頃、作曲をやっていた4人(私、芥川、奥村、団)には、特別の任務として部隊歌や吹奏楽曲の作曲が命じられ、一人ずつピアノ付きの個室が与えられました。

曲が仕上がると気心の知れた隊員に写譜を頼むのですが、他の隊員が危険な任務をしている最中、個室でゆっくりタバコを吹かしながら写譜をする仕事の方を好むのは当然で、希望者が続出したことは言うまでもありません。
しかし特に大勢は必要としないし、曲も早々とは仕上がらないので、選ばれた隊員は喜んで来てくれました。
そんな状態だったので、当時の私はいつまでも軍楽隊での生活を続けたいとさえ思っていたのです。

ところが、それからわずか3ヶ月後の8月15日に戦争は終わり、同時に軍楽隊も解散となったのです。
当時、私は音楽学校に戻れる喜びなどは全くなく、快適だった軍楽隊の生活から放り出されたことを悲しみました。
そして、隊に残っていた樽酒を全部自由に飲ませてもらいました。
私は半ばヤケ気味だったので、アルミニュームの食器で冷酒をガブガブと飲み、結局何杯飲んだのか覚えていません。

私は楽器は持たず、米四斗と毛布2枚だけ持って地下鉄の銀座線に乗り、終点の渋谷で降りたようですが、気がついたら駅のホームに倒れていました。
幸い、親切な中年のご夫妻が私に仁丹を飲ませてくれました。
私は恥ずかしさでお礼もそこそこに、桜ヶ丘町の焼け残った父の友人宅を訪ねて泊めてもらい、その家でしばらくお世話になりました。
深川にあった実家は全焼してしまいましたが、幸い両親は長野に疎開していて無事でした。

数ヶ月して江古田のアパートに住んでいた兄の友人が、転居するので部屋が空くからそこに住まないか、という話を聞き早速引っ越しました。
江古田のアパートは四畳半一間で、小さい流しがある他はトイレもない所でした。
親に無理な仕送りは頼めないので、配給のビールを知人に高く買ってもらったこともありました。
1日の主食があまり大きくないコッペパン3個の時もあり、いつも腹が空いていたので、朝に3個食べたこともありました。
その後の食事はどうしたのか記憶にありません。

ある日、友人が訪ねてきたので歓迎のつもりで、板切れで作った箱の内側にブリキを張ったパン焼き器に、あり合わせの小麦粉をこねて入れました。
部屋の隅にあるコンセントにソケットを差し込んだ途端、バッと火花が飛んだと思ったらアパート中真っ暗闇になり、人々のざわめきが激しくなりました。
私と友人は顔を見合わせて沈黙を続け、騒ぎが収まるまで部屋から出られなかったことは今も忘れられません。

それから今でも残念に思うのは、音楽学校の卒業記念のアルバムを買う100円が惜しくて、ついに買わずじまいだったことです。
信時潔先生とご一緒に撮った写真や、同期生たちと撮った写真などの入ったアルバムは、今ではどんな大金にも代えられません。
奥村一君から見せてもらった時は、本当に悔やまれて仕方がありませんでした。

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