私と映画音楽

1947年(昭和22年)の3月に東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)を卒業しましたが、続けて研究科(作曲専攻)に残してもらい、そして1949年(昭和24年)3月には研究科を修了しました。
当時は、まだテレビもない頃で、ラジオも民放はなくNHKしかありませんでした。
その頃、作曲家の仕事で最大の収入源は映画音楽を担当することでしたが、早坂文雄さんや伊福部昭さんなどが活躍中で、私には夢のまた夢のようなことでした。

しかし、生活のためには何か収入がなくてはならないので、アメリカ進駐軍のディナーミュージックのアンサンブルでピアノを弾いたり、地方の音楽教室でピアノ伴奏をしたりして細々とお金を稼いでいました。
食料事情の悪い時代でもありましたので、演奏の後に食事が出るのも魅力の一つでした。

アンサンブルでNHKのラジオの音楽番組にも時々は出る機会があり、演奏レパートリーのために新しく編曲したりして、NHKから編曲料をもらうこともありました。
また、NHKの音楽部には音楽学校の先輩がいて、私を子供の時間や学校放送のプロデューサーの方に紹介してくれました。
そのおかげで、劇伴の作曲の仕事もポツポツと増えました。
それでも、生活を支える程にはならないので、色々なアルバイトやピアノの先生をやったりして何とか食べていくのが精一杯でした。

その頃、運の良いことに民間放送局が次々と誕生し、劇伴の仕事がだんだんと増えてきました。
徹夜で作曲すると、泊まり込みの写譜屋が次々にパート譜を作り、夜明けとともにそれを持って数ヶ所の放送局へ出向き、かけ持ちで指揮棒を振る日々が続いたりしました。

少し前になりますが、研究科を卒業した頃にピアノと指揮法を指導していただいた金子登先生から、松竹大船撮影所のお偉方と親しい方を紹介していただきました。
そして、その方の紹介状を持って大船撮影所へ行ったところ、その時はお偉方には会えませんでしたが、松竹の音楽部に連れて行かれ、作曲や指揮の先生に会わせていただきました。
しかし、そう簡単には映画の仕事は廻ってこず、その後はラジオの仕事の方が大変忙しくなってしまったのです。

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