吉沢博さんについて

吉沢博さんは、映画音楽の指揮者としては天才的な人物でした。
小津映画は無論のこと、日活の仕事まで頼んで振ってもらったのですが、時間が足りなくて監督の要求通りの秒数で作曲できていなくても、吉沢さんは長すぎればうまくカットし、短ければ巧みに繰り返しを入れ、決まった秒数に曲をピタリと収めてしまうのです。

何しろ、計算尺片手にスタジオに現われ、楽譜を見ながら小節ごとの秒数を割り出して、その秒数を外さずに演奏するというのですから、どういう頭の構造をしていたのでしょうか。
それでいて、決して時間を合わせるだけの機械的な指揮ではなく、歌わせるところは歌わせ、アッチェレランド(だんだんはやく)もリタルダンド(だんだんゆっくりと)もお手のもの、まさに名人でした。

小津監督は音に関しては、吉沢さんを徹頭徹尾信頼していて、ほとんど言いなりという感じでした。
作曲家の人選、音楽制作の実務、録音の指揮は当然のこと、映画の音作り全般に吉沢さんの発言力は絶大でした。

たとえば、映画のシーンの中で聴こえてくる色々な音楽や効果音。
『秋日和』だったら、モーツァルトのピアノソナタを練習している音がどこからともなく聴こえてくるとか、シーンのつなぎにポンポン蒸気の音がするとか…。

これらを実際に決めていたのは、すべて吉沢さんなのです。
ダビングのとき、吉沢さんが小津監督に付いて「ここはポンポン蒸気ね。」とか、「歌の練習をしている人が、近所にいることにしよう。」とか、「まだピアノを習いたての子供が、つっかえつっかえバイエルをさらっているのがいい。」とかを録音の妹尾芳三郎さんに言うと、小津監督が「この音、なかなかいいねえ、なかなか合ってるねえ…」と喜ぶ、いつもそんな感じでした。

小津映画のサウンドトラックは、吉沢さんのアイデアで裁量されていて、小津監督がそれに同意するかたちで作られていたと言えるでしょう。
だから、小津映画の効果音などを褒める人は、吉沢さんの功績を忘れてはいけないと思います。
最初の台本段階での、小津監督と作曲家との打ち合わせのときも、吉沢さんが立ち会うのが恒例でした。

しばらくしてから、吉沢さんに姪の方を紹介していただきました。
それが現在の妻です。
そして、吉沢さんとは親戚になったわけですが、その恩人である吉沢さんも1985年(昭和60年)の秋、病には勝てず昇天されました。

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