小津監督との別れ

小津監督は1963年(昭和38年)になって、築地の国立がんセンターに入院されました。
そこへお見舞いに行ったのがお別れになってしまいました。

個室に入っていらして、佐田啓二さん(中井貴恵、貴一の父)が付き添っていましたが、私が行くと病室のまわりがずいぶん賑やかなんです。
どうしてなのかなと思って病室に入ってみると、原節子さんと司葉子さんがお見舞いに来ていたんです。
看護婦さんたちが、二人が病室から出てくるのを待っていたんですね。

小津監督は、頸部にできた癌のため相当な痛みがあったはずなのに、私が訪ねるとベッドの上に起き上がって、「斎藤君、よく来たね。」と歓迎してくれ、次のようにおっしゃいました。
「斎藤君、ぼくの映画に作曲した楽譜は大事にとっておきなさいよ、きっとまた役に立つことがあるから。」と言われたのです。

小津監督は、本当に私の音楽を評価してくれていたんだ・・・ということを実感し、胸が熱くなったことを覚えています。
あとは、何を話したのか思い出せません。

監督が亡くなられたのは60歳、1963年(昭和38年)12月12日の還暦の日でした。
小津監督とは、私が27歳の時に出会い36歳でお別れしました。
たった10年間のお付き合いでしたが、生涯忘れることのできないとても大切な思い出になりました。

私にとって記念すべき最初の映画は『東京物語』でした。
初仕事の『東京物語』は、1953年(昭和28年)度の芸術祭文部大臣賞(団体賞)、毎日コンクール作品賞、都民映画コンクール金賞、アドルフズーカー賞など数々の栄誉に輝きました。
さらに、英国の雑誌『サイト・アンド・サウンド』で、映画史上最良の作品ベストテンの第3位に選出されたと聞き、とてもうれしく誇らしい気持ちでいっぱいです。

それから小津監督のご紹介で、翌年(昭和29年)には『月は上りぬ』の音楽を担当し、監督・主演をなさった田中絹代さんからも大変喜ばれました。
その後、日活の映画音楽やテレビドラマのテーマ曲などもやらせていただきましたが、すべて小津監督のお蔭だと思っています。

昭和27年、あの蒸し暑い夏の日の午後、大船撮影所で小津監督に初めてお会いした日のことは、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。
まるで夢のような10年間でした。
小津監督、本当に有難うございました。

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