Feb 26, 2012

小津安二郎と信時潔の接点 その1

信時潔(1887年-1965年)は、同世代の山田耕筰と共に、20世紀の日本を代表する偉大な作曲家である。
戦時中、準国歌と言われた軍歌「海行かば」の作者としても有名である。
※信時潔の功績については、信時裕子さん(信時潔の孫)が運営しているサイト、信時潔研究ガイド(信時潔に関する研究情報ページ)をご覧ください。

これまで、小津と信時に接点があるなど考えもしなかった。
しかし、たまたま当サイトを目にした信時裕子さんから、斎藤高順直筆の信時潔に関するアンケートを保管しているというご連絡をいただいた。

信時裕子さんからお送りいただいた、アンケートの原本(消印は1985年)と学校音楽新聞のコピーを以下に掲載する。
信時潔アンケート
学校音楽

斎藤は芸大入学当初、信時の第一印象を次のように語っている。
「眉の太い、髭を生やした、ごま塩頭を坊主がりにしたすごく体の大きな先生がもう先に来ておられて、一人でピアノを弾いていらっしゃったので一瞬恐れをなしてしまったのですが、体に似合わず、とても親しい感じを覚えたことを思い起します。」
また、「回想録」の中でも「作曲を習うというより習作を見て頂き、ご意見を伺うかたちの授業でした」と述べていたとおり、信時の指導法は理論よりも実践に重きを置いたスタイルであったようだ。
それを裏付けるように、「信時先生の授業はバッハのコラールの旋律を用いて新しく四声体を作ることから始まり、次に生徒の作品(主にピアノ曲や歌曲等)を見て頂くのであるが、ほんの少し手直しして下さると、作品が見違える程、実に見事になるので、奥村君(奥村一)と顔を見合わせて、只々驚嘆するばかりで、我々の力不足を思い知らされる事の総てであった。」
と述べており、その当時の心境を次のように表現している。
「我々が作った曲の旋律が少々不自然だったりする箇所があると、わざと強調しておかしく弾かれ、その時の恥ずかしさは今も忘れられない。」
つまり、まず実践させてみて失敗を経験させる。
そして、問題点を指摘し、本人に気づかせ成長を促す…というやり方だったように思う。

さらに芸大卒業後も、斎藤と信時の師弟関係を物語る次の記述には大変興味を覚えた。
「作曲の演奏会に恐る恐るご招待すると、必ず出席され、楽屋までお見えにならない代り、いつも感想を述べ、激励をされるお手紙を忘れずにお寄せ下さった。そのほか、お知らせもしないのに、映画や放送(ラジオやテレビ等の劇の伴奏)で私の作った音楽を聴かれると、その感想に助言を交えたお便りを下さる事も度々あり、その度に感動しては成長して行った。」

信時は、その後もずっと斎藤の活躍を見守り、心の支えとなり勇気づけていたのではないだろうか。
特に、まもなく斎藤は小津安二郎との対面を果たし、非常に大きなチャンスを掴むことになるのだが、その時の様子を「回想録」ではこう語っている。
「小津安二郎監督と言えば、当時の映画関係者の間では神様の様な存在で、しかも大変厳しい方だという評判は私の耳にも入っておりましたので、夢の様に思われる反面、恐ろしさで身も縮む様な複雑な気持ちでした。」

映画音楽の経験もなく、社会経験も乏しい20代の新米作曲家が、いきなり小津映画の音楽を任されるなど、普通に考えれば恐ろしくて逃げ出したくなってもおかしくないだろう。
しかも、「東京物語」では老夫婦の悲哀を音楽で表現しなくてはならないのだ。
その当時、信時は60代後半であり、老夫婦の心情を音楽で表すにはどうすれば良いのか、何らかのアドバイスが斎藤に与えられたとしても不思議ではない。
と言うのも、「東京物語」の音楽はあまりにも良く出来過ぎているからだ。
20代の新米作曲家の作品にしては、見事に映像とマッチし過ぎてはいないだろうか。
もちろん、単なる憶測に過ぎないが、もしかすると信時が斎藤を通じて、密かに小津映画をサポートしていたと考えると、何とも不思議で興味深い話ではないか。

斎藤高順結婚式 記念撮影より
(左から)斎藤高順 信時潔 小津安二郎
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