Aug 10, 2011

「制服を着た芸術家」 1971年(昭和56年)

以下の文章は、父の遺品の中から見つけたコピーを引用したものである。
実は、そのコピーの出所が分からない。何かの雑誌のコピーのようだが、その雑誌の名称が分からないのだ。その上、この記事の執筆者がどなたなのかの情報もない。手がかりとなるようなメモ類も見当たらない。

しかし、あの当時(1971年頃)の父の様子を実によく著しており、我々遺族や生前父と親交のあった人たちにとっては、とても懐かしくまた興味深い内容である。そのため、是非当サイトに掲載したいと思いデータ化をしたのだが、一体どなたに許可をいただいたら良いのか見当がつかない。
もし、この記事に心当たりのある方がいらしたら、是非とも私にご一報いただけると幸いである。宜しくお願いいたします。

「制服を着た芸術家」

■作曲家から自衛隊音楽隊長になった斎藤高順さん
高名な作曲家が、ある日、ふとしたきっかけで、自衛隊の音楽隊の隊長になった。
一等空佐の斎藤高順さんがその人だ。一佐といえば、むかしの大佐。連隊長になれる階級の人である。

この音楽連隊長は、この航空自衛隊の中で、心底から音楽を愛する若者たちと、いま、心をゆさぶる”音”の創造にすべてを忘れている・・・。
斎藤高順さん、47歳。自衛隊一等空佐、航空音楽隊長。こう書くと、おやっと思う人が多いかもしれない。

斎藤高順といえば、テレビ、ラジオ、映画などで活躍中の作曲家として知られている。同姓同名の人なのかしら・・・と。ところが、一等空佐の斎藤さんと、作曲家の斎藤さんは、まぎれもない同一人物。今年の六月、フリーの作曲家から、懇望されて航空音楽隊の隊長として迎えられたのだ。

いったいぜんたい、現役バリバリの音楽家が、どうして自衛隊に入隊することになったのか。しかも、斎藤さんは、亡くなった名映画監督・小津安二郎氏の作品のほとんどに、テーマ音楽をつけていた人。小津安二郎ごのみの情緒こまやかな曲に耳なれている人には、さらにふしぎの度を加えるにちがいない。

そこで、さっそく航空自衛隊立川基地に、斎藤さんを訪れた。基地の正門には、小銃を手にした隊員が立っていて、一見近寄りがたい。が、守衛の受付けは、いたってていねいである。「おそれ入りますが、ここにご氏名をお書きください」といった調子。中央官庁の受付けは遠く及ばぬソフトムードだ。
教えられた道順をたどると、一見、体育館ふうの建物の中から、そう快なブラスバンドの響きがつたわってきた。わきに、ミッキーマウスをあしらった看板があって、「歓迎」と書いてある。

■浅からぬ因縁
ちょうど合奏の練習に指揮棒を振っていた斎藤さんは、額の汗を拭いながら、指揮台を下りて迎えてくれた。
「じつは、以前から、航空音楽隊とはご縁が深かったんですよ」斎藤さんは、まえまえから、航空音楽隊の実力を、高く買っていた。航空音楽隊のほうからも、よく作曲の依頼が来ていた。隊員たちとは、だからすでに顔なじみだったのだ。

大阪の万博では「みどり館」で上映された映画、「前進」の音楽を担当したが、そのときも、航空音楽隊の出演をとくに依頼している。そんな関係で、初代の航空音楽隊の隊長さんから「ひとつ、後任を引き受けてはくれませんか」と話がきたのである。
しかし、いくら密接な関係があったとはいえ、斎藤さんは、やはりためらった。まず第一に、はたして航空音楽隊の隊員たちが、自分を隊長として迎えてくれるかどうか。オーケストラにしろブラスバンドにしろ、指揮者と楽員とが、気も心もひとつにならなければ、いい演奏はできない。多少でも感情的な食い違いがあれば、仕事にならないのである。

第二に、時間のこと。いままで、フリーの作曲家として、自分の思うがままの時間の使い方をしてきた。何時に起きようが寝ようが、だれにも気がねはない。
ところが、こんどはそうはいかない。公務員なみに、朝八時半から夕方五時までの時間を、きちんと守る生活だ。はたして、自分にそれができるかどうかが不安だった。

しかし、隊員たちは、斎藤さんの隊長赴任は大歓迎だった。斎藤さんの手になる曲を何度も演奏しているために、よその人とは思えなかったのだろう。時間のことにしても、慣れてしまえばどうということもなかった。
それに、斎藤さんにとっては、航空音楽隊の隊員たちと仕事をするのは、ひじょうに魅力があった。音楽隊のメンバーの1人1人のレベルが、抜群に高いからである。斎藤さんによれば、「技術的にも、感覚的にも、おそらくは日本一ではないか」というだけの力を備えている。

■音楽を愛し、国を愛す
ここで、航空音楽隊の横顔について、かんたんに触れておこう。
創立は昭和36年。まだ11年という短い歴史だ。だが、先発した陸海の自衛隊の音楽隊に追いつけ追いこせを合言葉にがんばった。その甲斐あって、いまでは、押しも押されもせぬ楽団に成長した。

毎月、一度は地方に演奏に出かけるほか、練習の時間もないほど、出演の依頼がくる。去年などは、1年に250回も演奏を行なった。そのうえ、吹奏楽器の演奏は、ほかの楽器の三倍のエネルギーを要すると言われる。肉体的な疲労は大へんなものだ。
札幌オリンピックのときなどは、みるみるうちに膝に雪が積もる中で、二時間もぶっつづけに吹き鳴らす。なみの体力ではもたないのである。それを耐えぬいたのは、なんといっても、平均年齢24歳という若さだ。

そして、日ごろの規律正しい生活、加えて、忘れてならないのは、1人1人の「プロ根性」だろう。航空音楽隊にかぎらず、自衛隊の音楽隊のメンバーは、たまたま鉄砲のかわりにトランペットを持った、というのではない。吹奏楽器が好きでたまらない若者たちが、ここに自分の世界を見出して集まってくるのである。
テレビのブラウン管だの、キャバレーのうす暗いステージで、虚構の名声を博するのではなく、心から音楽をたのしみ、その楽しみを分ち合いたいばかりに、自衛隊の音楽隊にやってくるのだ。

だから、ここには、音楽大学を卒業した人、中学、高校時代からブラスバンドのメンバーだった人たちだけがいる。音楽隊をめざして入隊したものの、音楽隊の試験にパスできなかった人もたくさんいる。全国から、われこそはと音楽隊を志願する腕自慢の若者は、年に30名はいるが、入隊できるのはそのうちの4、5名だ。文字どおりの狭き門である。
それだけに、プロフェッショナルとしての意識は高い。こなす曲目も、モーツァルトからバカラックまで、ジャズもあればポップスあり、行進曲しかやらないと思ったら大まちがいである。

■「やりがいのある職場です」
「私はね、シャバだろうと、ここだろうと、音楽に変わりはないと思っています」
――シャバとはつまり自衛隊の外の世界のこと。いや、むしろ音楽に関しては、シャバよりも自由な空気がここにある。
「楽壇」というものが厳然として控えているシャバでは、新曲を発表してもなかなか演奏される機会がない。たとえ演奏されても、それが再演になるということは、ほとんど絶無といってよい。

ところが、ここでは、斎藤さんが想を練って作った曲を、隊員たちは喜んで吹いてくれる。音になる。隊員たちが、自分の率直な気持から、「これはいい曲だな」と感じてくれるのだ。
そして、心をこめて演奏することが、聴いている人の胸をも打つ。作曲家冥利につきる、と斎藤さんが言うのもむりはない。「だから、シャバの作曲家仲間がうらやましがりましてね」と、斎藤さんはニコニコする。

それだけではない。さきほども書いたように、この売れっ子楽団は、自衛隊のPRに、きわめて重要な役割を背負っている。公演ばかりでなく、地方に行けば、その土地の中学生や高校生のブラスバンドの指導が待っている。
こうして、音楽を媒介にしながら、青少年の健全な心を育てるお手伝いをすると同時に、国民と自衛隊とのパイプ役になっているのだ。「いま、自衛隊の中で、最前線に立っているのが、われわれなんですよ」と胸を張る理由も、ひとつにはここにあると言えるだろう。

自衛官となって、いちばん面くらったことは――とたずねると、「やはり時間のこと。最初の1ヵ月はつらかった。それから、月給をもらう身分になったということ。なにしろ生まれてはじめて”月給”と名のつくものをもらったのですから」
制服を着た感じは、と言うと、「やっぱりテレくさかったですな、は、は、は、・・・」と、テレながら大笑する。

家には、奥さんと、高校から幼稚園までの4男1女。長男はセロを弾き、三男はバイオリン、末娘のお嬢ちゃんは目下ピアノと取り組んでいる。
ときには斎藤さんの指揮のもと、家じゅうで合奏をやることもあるそうだ。根っからの音楽好きの血を、やはりひいているのであろうか。

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航空自衛隊「ブルーインパルス」パイロットの皆さんと記念撮影

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