Aug 10, 2011

音楽隊長の頃

『むかしの仲間』 第10号 1991年秋 斎藤高順
音楽学校(今の芸大)を卒業してからは、自主的に作曲して発表する以外は放送局や映画関係からの頼まれ仕事で作曲料を貰い、それが唯一の収入源で、とにかくフリーの作曲家として生活が出来た。
忙しい時には、一日の中にNHKと民放を掛け持ちしたり、その為に徹夜を続けたり、写譜屋を待たせて一曲ずつ仕上がる度に、その場でパート譜を書かせることなど、年中行事だった。
丁度その頃結婚したり、五人の子供たちを育てたりした。
永くそんな事を繰り返していると、だんだんと作曲料のランクも上ってきて、ガムシャラに仕事をしないでも食べられる様になった。
ところが、優秀な若手の作曲家が次々に現われ、自分よりも安い謝礼で良い仕事をする様になると、依頼される仕事がだんだんに減り、生活にも響くほど不安が増してきた。
そんな折り、或る日突然航空自衛隊の音楽隊長をやらないかと云う打診が、戦時中に在学のまま入隊した陸軍軍楽隊の大先輩で、初代の航空音楽隊長の松本秀喜氏(当時は警視庁音楽隊長をしていた)からあったのが昭和46年の暮れである。
何しろ作曲以外の経験が全くないので、色々と悩んだ末ようやく受諾を決意し、翌年(昭和47年)の六月から勤め、七月には第四代目の航空音楽隊長に就任した。
しかも一等空佐(昔の大佐)に任命されたのである。
音楽隊長としては最高の位で、現在までに初代隊長と私以外は誰もいない。
それまでは作曲をして収入を得ていたのに、作曲もしないのに俸給を貰えることが何とも申し訳なく、その返礼として音楽隊のために吹奏楽曲を作曲することに決めた。
まず最初に作ったのが交響詩『オンリー・ワン・アース(かけがえのない地球)』で、初演は米第五空軍軍楽隊との合同演奏で行った。
その後、毎年の定期演秦会の度に新作を発表し、昭和51年3月退職するまでの間に、交響詩『自然への回帰』『叫び』『母なる海』それから組曲『エメラルドの四季』などを作曲初演した。
行進曲『銀翼』を作った時は幕僚長から表彰を受けた。
行進曲『ブルー・インパルス』や『輝く栄冠』『輝く銀嶺』『輝く前進』などは就任以前に作曲したものである。
何よりも思い出深い事は、退職の一年程前の秋に、約3週間陸・海・空の音楽隊長三人でスイスで行われる国際軍楽祭に参加しろという出張命令が下りた事である。
何しろ日本語以外は全く話せない三人の珍道中でしたが、行く先々の駐在武官や大使・公使の方々に連絡が取られていた御蔭で、つつがなく、むしろ大変な成果が上った。
めったにない渡欧なので、欧州各国を訪問し、フランスではギャルド・レププリケーヌ軍楽隊を訪ね、吹奏楽の外にオーケストラも聴かせて貰い、手土産代わりに隊長のロジェ・ブートリー氏に差し上げた拙作の交響詩『オンリー・ワン・アース』が早速レパートリーに加えられ、各地で演奏され、またギャルドの日本公演のプログラムにもそれは加えられた。
オーストリアでは、ウィーン国立歌劇場で本場の『ラ・ポエーム』に感激し、ドイツのミュンヘンではホフブロイハウスで世界一の生ビールを堪能した。
ベルギーのブリュッセルでは美術館顔負けの彫刻で飾られた街並に目を見はらせ、スイスでは山々や湖水の美しさに感動を覚えた。
いよいよ本命の軍楽祭は、各国色取りどりの趣向で心から楽しめた。
しかし、音の方は日本に比べて際立って優れているとは思えず、日本の吹奏楽の実力を改めて見直した。
これが最大の収穫ではあった。
しかし大変有意義な出張であったのに、その後は全く実施されていない。
……何故だろうか?
昭和51年3月に航空自衛隊を退職し、同年4月からは松本隊長の後を受けて、これも第四代目の警視庁音楽隊長に就任した。
今度は航空自衛隊の様な本官ではなく、一般職ではあるが、参事・理事官という署長さん並の待遇で、通勤には送迎の車を隊員が運転し、御蔭で判を押した様な生活が続いた。
また私の在職中に、庁舎の改築が本決まりとなり実施された。
今までの隊長で旧庁舎と新庁舎の両方を経験したのは私だけである。
その上、新庁舎の建築中は、霞ヶ関から南千住の仮庁舎に移動したが、これが又素晴しく居心地が良く、上から目が届かないので、隊員ともども楽しい月日を送ったし、合奏訓練も充分に出来、音楽性も高まり、技術も向上した。
また仕事や練習が一段落すると、良く飲み会を開いた。
芥川也寸志の新作マーチを練習した後も、芥川を囲んで飲み会をやり、南千住のバーで二次会までやった。
三年ほど経て、新庁舎が落成し、また霞ヶ関に戻ることになったが、全員が仮庁舎に名残を惜しんだ。
……新庁舎は18階建のビルで、音楽隊は17・8階にわたって作られ、音響の良い大・小2つの合奏場、それから素暗しい楽譜室や幹部室・隊員室・隊長室など今までとは見違える程の設備の見事さには溜息が出るばかりでした。
警視庁音楽隊は、春秋の気候の良い頃の水曜日の昼、日比谷公園の小音楽堂で水曜コンサートを開く習慣があり、そのために演奏する行進曲も随分作った。
『ウェンズデイト』『マーチングエスカルゴ』『ビューティフル・トウキョウ』『誇り高き勇姿』等々である。
良く演奏した『ジャスト・ライダー』は航空自衛隊の頃の作品であり吹奏楽連盟の課題曲『オーバー・ザ・ギャラクシー』は仮庁舎の頃の作曲である。
マーチの外にはバンドのためのメルヘン『マッチ売りの少女』やインテルメッツォ『夢現』なども作り演奏した。
……新庁舎落成を記念して隊員の中村晋君が作った旋律を基に作曲した『警視庁行進曲』は、各種行事で多く演奏され、特に正月に行なわれる観閲式では行進用に必ず用いられている。
昭和61年3月に定年を一年延長して退職したが、あれから五年余りも過ぎてしまった。 まだ思い出は尽きないが、この辺りで筆を置くことにする。

音楽隊長の頃

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