Sep 7, 2017

夏の小津会「小津映画と斎藤高順の音楽」

7月末の「夏の小津会」に続き、8月末「小津映画を奏でる」に出演するため、再び蓼科高原を訪れました。昨年、初めて蓼科高原映画祭を拝見しましたが、今年は「夏の小津会」と「小津映画を奏でる」の二つの映画祭プレイベントへ参加することができました。

「夏の小津会」では、小津映画音楽に関するプレゼンテーションを行いました。「夏の小津会」でご紹介したプレゼンの内容は、概ね以下の通りです。ご興味のある方は、是非ご覧になってみてください。

夏の小津会 テーマ「小津映画と斎藤高順の音楽」/2017年7月29日(土)13:00~14:00

作曲家・斎藤高順のプロフィール紹介
最初に、小津監督に関連する作品だけを一覧表にしてご紹介します。
昭和28年「東京物語」、昭和30年「月は上りぬ」(田中絹代監督作品)、昭和31年「早春」、昭和32年「東京暮色」、昭和33年「彼岸花」、昭和34年「浮草」、昭和35年「秋日和」、昭和37年「秋刀魚の味」、昭和38年「青春放課後」(NHK)、昭和40年「戸田家の兄妹」(フジテレビ)、昭和58年「生きてはみたけれど」(井上和男監督作品)、平成5年「小津と語る」(田中康義監督作品)、以上12作品の音楽を担当しました。

ここからは、幼少期から作曲家になるまでの足跡を、簡単にご紹介します。
父は、大正13年(1924年)、東京の深川東陽町に生まれました。男ばかり三人兄弟の次男でした。深川東陽町は、歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」にも描かれたような、江戸時代までは海を臨む観光名所でした。戦前、この辺りは洲崎弁天町と呼ばれ、日活映画「洲崎パラダイス 赤信号」の舞台にもなった、下町の有名な歓楽街でした。

祖父は、旧姓深沢松次郎といい、長野県北安曇野郡小谷村出身、祖母は斎藤たみといい、新潟県北蒲原郡水原町の出身で、実家は新潟で造り酒屋を営んでいました。祖父松次郎は、深川で酒屋を営む祖母たみの家へ婿養子に入り、父はそこで生まれ育ちました。祖母は義太夫の心得が有り、父は幼い頃から、祖母が口ずさむ義太夫を子守歌代わりに聞いて育ったそうです。

斎藤家が暮らした深川は、辰巳芸者が三味線や太鼓を奏で、外からは長唄が聞こえてくるような環境でした。しかし、父はそんな環境で暮らしていることを内心では恥じており、学校の帰り道にわざと遠回りをして、同級生に住んでいる場所を知られないようにしていたそうです。東陽小学校に入学してからは、兄貫一がベートーヴェンの全交響曲を買い揃え、繰り返し聴いていたことから、父はクラシック音楽にも興味を覚えはじめました。義太夫、長唄、そしてクラシック音楽など、いつも身近に音楽と触れ合う環境が、自然に父の音感を養ったのではないでしょうか。

中学時代から、本格的に音楽の勉強を始め、戦時中の昭和18年に東京音楽学校(今の東京芸術大学音楽学部)へ入学しました。同期には芥川也寸志や奥村一、一級上には團伊玖磨がいました。昭和18年10月には、戦争の激化に伴い、学生の特権であった徴兵猶予が廃止されましたが、東京音楽学校の生徒たちは、特別に陸軍戸山学校軍楽隊への入営が許可され、父たちは音楽を通じて祖国のために尽くすことになりました。父、芥川也寸志、團伊玖磨、奥村一の4名は、戦地へ派遣されることもなく、特別任務として部隊歌や吹奏楽曲の作曲が命じられ、一人ずつピアノ付きの個室が与えられました。

昭和20年8月、終戦によって軍楽隊は解散となり、父は東京音楽学校へ復学しました。昭和22年3月には、東京音楽学校本科を卒業し、そのまま研究科へ進み作曲の勉強を続け、昭和24年3月に研究科を卒業しました。この時から、フリーの作曲家としてスタートを切りました。

小津監督と父の出会い
東京音楽学校の卒業を間近に控えていた頃、教授から松竹の城戸四郎所長と親しい方を紹介してもらい、その方の紹介状を持って大船撮影所を訪ねました。その時は、城戸所長にはお会いできませんでしたが、音楽部門の責任者で松竹管弦楽団の指揮者でもあった吉澤博さんと会うことができました。しかし、すぐに仕事へ繋がったわけではなく、2年ほど経ったある日、NHKのラジオ放送の仕事でご一緒した声楽家の今村桜子さんという方が、偶然吉澤さんとお知り合いで、二人で笄町にお住まいだった吉澤さん宅を訪問したことが転機となりました。

実は、その頃吉澤さんは小津監督から、次回作「東京物語」の音楽監督を探すように頼まれていたのです。早速、吉澤さんは父が作曲したラジオドラマの音楽を聴いて、父の作風は小津映画に合うと直感したそうです。吉澤博さんは、明治41年(1908年)水戸の生まれで、昭和9年(1934年)松竹歌劇団作曲部に入社し、昭和20年(1945年)松竹大船撮影所音楽部へ移動となり、後に責任者となりました。

当時、映画監督は作曲家とのパイプがなく、黒澤明監督が重用した早坂文雄さんや、後にゴジラの音楽で世界的な名声を博した伊福部昭さんなどの巨匠、木下恵介監督と弟の忠司さんなど、一部の著名な作曲家以外には、あまり映画音楽の仕事が回ってこない時代でした。小津監督が、初期に起用した伊藤宜二さんと斎藤一郎さんもベテラン作曲家であり、小津作品以外にも沢山映画音楽の仕事を抱えており、多忙を極めていました。その当時、吉澤さんは映画監督に作曲家を紹介する役割を担っており、主に新人作曲家を発掘し、監督に推薦する役目を行い、父や黛敏郎さんも吉澤さんが発掘した作曲家の一人でした。

「晩春」「麦秋」に続いて、紀子三部作となる「東京物語」の制作に入るにあたり、作曲の伊藤宜二さんと小津監督の間に意見の相違が生じ、伊藤さんが音楽担当から降りてしまいました。前作「お茶漬けの味」で音楽を担当した斎藤一郎さんは、この時14作品もの映画音楽の予定を抱えており、スケジュール的に無理でした。困った小津監督は吉澤さんに相談し、急遽新人の作曲家を探すことになりました。

吉澤さんは父が適任であると考え、小津監督との面談を設定しました。昭和27年の初秋、父は松竹大船撮影所を訪れ、初めて小津監督とお会いすることになりました。小津監督は父に関する予備知識は何も持たず、これまでに父が作曲した音楽を聴くこともなく面談し、直感的に父の起用を決め、その日のうちに「東京物語」の第一回目の打合せを行いました。打合せの後は、近くの料亭でスタッフに父を紹介すると、すぐに飲み会を始めたそうです。父の印象によると、小津監督は音楽に関しては吉澤さんの意見を尊重し、ほぼ言いなりだったようで、吉澤さんの推薦ならば間違いないと考え、余程のことがない限り、はじめから父を採用するつもりだったのかも知れません。

夜想曲に関するエピソード
「東京物語」は、昭和28年の初秋にクランクアップし、オールラッシュが行われました。オールラッシュの後、間もなくしてオーケストラのメンバー全員が集められ、映画の最初から最後まで、全ての音楽を小津監督の前で演奏を行いました。これを御前演奏会と言い、松竹大船撮影所では小津監督だけに与えられた特権でした。

それまで、小津監督は音楽を一度も聴かず、御前演奏会で初めて全ての音楽を聴き、その場でOKかNGかの判断を下すのです。そこでNGが出た場合、1週間から10日後に行われるレコーディングまでに、曲の書き直しが命じられます。演奏を最初から最後まで、黙って聴いていた小津監督は、最後にひと言「いいね!」と仰ったそうです。小津監督の反応はとても良く、音楽は全てOK、NGは一つもありませんでした。これまでにはなかったことで、小津監督は父の音楽がとても気に入ったようでした。

それから、レコーディングも終わり、自分の仕事は無事終了と思い、ホッとひと安心していたところに、小津監督から突然ストップがかかりました。ミックスの段階になって、あるシーンの音楽に問題があると言うのです。それは、東山千栄子さんが原節子さんのアパートを訪ね、夜二人でしみじみと語り合うシーンの音楽でした。父は感動的なシーンなので、敢えて美しく叙情的な音楽を付け、これに「夜想曲」というタイトルを付けました。

ところが、小津監督は次のように仰ったのです。
「この音楽はシーンと合い過ぎて、映画全体のバランスが崩れる。悲しい曲やきれいな曲では場面と相殺になってしまう。ぼくは、登場人物の感情や役者の表現を助けるための音楽を決して希望しないのです。」
小津監督は、曲は気に入っていましたが、映像と合わせてみたときに、この音楽が場面に入り込み過ぎていることに気が付いたのです。小津監督は、「映画全体のバランスが崩れる。」と指摘しました。

父は、この曲の出来映えに大変自信があった上、まだ小津監督の意図を正しく理解していなかったので、「夜想曲」を採用するように主張しました。しかし、小津監督は音楽をカットすべきか色々と迷った末、ボリュームを思い切り下げて流すことにしたのです。音楽をもっと小さく、もっと小さく…と録音の妹尾芳三郎さんに言って、どんどんボリュームを下げさせたのでした。その結果、このシーンに付けた音楽は、映像を観るとほとんど聴こえません。小津監督は、観客の感情に訴え過ぎるような音楽の使い方を嫌っていたのです。

原さんと東山さんの対話シーンは2分以上あり、そのバックには夜想曲がずっと流れていますが、当時東京交響楽団のコンサートマスターを務めていた鳩山寛さんによる見事なバイオリン演奏もほとんど聞こえず、父は大変落胆しました。すると、落胆した父に対し、小津監督は次のように仰ったそうです。
「いくら、画面に悲しい気持ちの登場人物が現れていても、その時、空は青空で陽が燦々と照り輝いていることもあるでしょう。これと同じで、ぼくの映画のための音楽は、何が起ころうといつもお天気のいい音楽であって欲しいのです。」
父はこれらの言葉によって、小津監督の映画音楽に対する考え方が、少し判ったような気がした、と後に述懐していました。

「東京物語」の後、父は小津監督から田中絹代さんを紹介していただき、田中さんが監督した「月は上りぬ」と「乳房よ永遠なれ」の音楽を担当しました。また、田中さんが主演を務めた「少年死刑囚」の音楽も手掛けるなど、この時期に田中絹代さんとの交流を深めました。「月は上りぬ」、「乳房よ永遠なれ」、「少年死刑囚」が公開された昭和30年5月、父は結婚式を挙げますが、仲人を大胆にも小津監督と田中絹代さんにお願いしたそうです。さすがに、それは出来ないと断られたそうですが、小津監督は結婚式に出席してくださいました。

ちなみに、結婚相手ですが、吉澤博さんから姪(姉の娘)を紹介してもらったということで、それが私たち兄弟の母です。こうして、父と吉澤さんは親戚になりました。ついでにご紹介しますと、兄章一の名付け親は小津監督だそうです。



サセレシアに関するエピソード
父にとって小津映画第2作目は、昭和31年に公開された「早春」でしたが、ここでもある問題が発生しました。それは、主役の池部良さんが、病気療養中の会社の同僚増田順二さんを見舞うシーンと、増田さんが突然亡くなってしまい、増田さんのお宅に池部さんが弔問に訪れるシーンの音楽についてでした。

父は、最初悲しいシーンなので悲しげな音楽を付けるつもりでしたが、「夜想曲」の一件があったため、どのような音楽にするか迷っていました。そこで、小津監督に相談すると、次のように言われたのです。
「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑けいな曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる。悲しい場面でも時に明るい曲が流れることで、却って悲劇感を増すことも考えられる。」
そして、「こんな音楽で頼むよ。」と言って、ご自身が所蔵していたレコードの中から2枚のSP盤を貸してくれました。それは、フランスのシャンソン「サ・セ・パリ」と、スペインのマーチ「ヴァレンシア」でした。父は楽譜も取り寄せ、2曲を分析したところ、リズムやメロディーに共通点があることを発見し、それらを参考にして、よく似ているようで少し違う曲を作曲しました。

小津監督に聴いていただいたところ、大変喜んでくださり、ご自身で「サセレシア」という曲名を付けました。「サセレシア」とは、特に意味はなく、「サ・セ・パリ」のサセと、「ヴァレンシア」のレシアを繋げただけの造語でした。その後、「サセレシア」は昭和32年公開の「東京暮色」ではタイトルバックから主要なシーンに使われ、昭和33年公開の「彼岸花」にもワンシーンだけ使われました。「サセレシア」は、小津監督が仰った「お天気のいい音楽」を象徴する一曲となりました。

小津調ポルカの誕生
昭和34年公開の「浮草」では、主役の中村鴈治郎さん演じる旅芸人駒十郎を表すような、テーマ音楽的なものが欲しいね、ということになりました。父は、最初ストーリーを意識して民謡風のひなびた曲を用意しましたが、小津監督はストーリーにとらわれない、もっと明るくリズミカルな音楽を希望したそうです。「浮草」の楽譜の中から、「大王音頭」と「波切盆踊り」という楽譜を発見しました。大王町波切は、「浮草」のロケ地だった三重県志摩郡の地名で、もしかすると、これが民謡風のひなびた曲だったのかも知れませんが、残念ながら真相は分かりません。

小津監督はチェコの流行歌「ビア樽ポルカ」という曲が大変お好きだったので、ポルカ調の音楽を作ったところ大変喜ばれました。そして、「浮草」のポルカをきっかけに、昭和35年「秋日和」のポルカ、昭和37年「秋刀魚の味」のポルカと続き、これらは小津調ポルカと呼ばれ、小津映画を象徴する音楽となりました。

実は、「浮草」(昭和34年11月公開)と「秋日和」(昭和35年11月公開)の中間頃に撮影された、日活映画「あじさいの歌」(昭和35年4月公開)のテーマ音楽まで小津調ポルカ風になってしまいました。当時25歳だった石原裕次郎が、なんと小津調ポルカ風の主題曲を歌っており、あまりヒットはしませんでしたが、大変珍しい作品ではないかと思います。

小津監督との別れ
「燕来軒のポルカ」と「かおるのポルカ」はほぼ同じ曲で、これらを「秋刀魚の味のポルカ」と総称して呼びますが、この曲が気に入った小津監督は、次回作「大根と人参」でも使いたいと言われ、「自分が歌詞を書くから、宝塚の寿美花代に歌わせてレコーディングしよう。」と仰ったそうです。しかし、小津監督が病気になったため、実現しなかったことは大変残念なことでした。

セリフの端々にもユーモアが感じられますが、カメラの三脚(カニ脚)を赤くしたり、両親の結婚式の引き出物だった赤い風呂敷を山本富士子さんに持たせたり、また同窓会の帰りに東野英治郎さんを送るため、笠智衆さんと中村伸郎さんが乗ったセドリックは斎藤家所有の車だったらしいことなど、随所に監督の遊び心を感じさせるシーンがありました。


最後にお目にかかったのは、築地の国立癌センターの病室でした。父が訪ねると、小津監督はとても喜んで下さり、ベッドから身体を起こして次のように言われたそうです。
「斎藤君、ぼくの映画のために作曲した楽譜は、大事にとっておきなさいよ。きっとまた役に立つことがあるからね。」と仰いました。
父は、小津監督が本当に自分の音楽を評価してくれていたことを確信し、大変感激したとのことでした。これらの楽譜は、現在は私が保管していますが、小津監督は自分の映画音楽が、いつか演奏されることを予感していたのかも知れません。

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