Feb 26, 2012

小津安二郎と信時潔の接点 その2

1955年(昭和30年)、小津安二郎と信時潔は斎藤高順を介して初対面を果たした。
だが、本当に初対面だったのだろうか…。

小津は、昭和17年に「父ありき」という名作を公開した。
アジア・太平洋戦争が繰り広げられる最中、他の映画監督は軍の意向に基づき戦意高揚、軍国主義を肯定するような作品ばかりを制作していた。
しかし、「父ありき」には一人の軍人も登場せず、それどころか教え子を誤って死なせてしまった教師の苦悩を描き、家族が離ればなれに暮らす悲しみを訴えているのだ。
これは、遠回しに戦争や軍国主義に対する警鐘を促していたのではないか。

特に最後の場面では、父の遺骨を抱いた息子が汽車に乗って秋田へと向かう。
車中、息子は小学生の頃から父と一度も一緒に暮らせなかったことを悔やみ、秋田では嫁の家族も呼んで一緒に暮らしたいと願うのである。
世の中が戦争一色に染まる中、このような人間愛、家族愛を描いた作品を公開することがよく許されたものだと思ってしまう。

ところが、この作品には秘話があったのだ。
「父ありき」のラストシーンは、敗戦後GHQの検閲によってカットされていたのである。
1945年8月、第二次世界大戦終結直前に、ソ連軍が満洲へ侵攻し満洲国は崩壊した。
ソ連軍は満洲に侵攻したときに、日本人の持ち物を片っ端から略奪していった。
その中に、「父ありき」のフィルムが含まれていたのだ。

やがて、ソ連が崩壊しロシアになったとき、日本人から押収したものが返還され、「父ありき」のフィルムも日本へ戻ってきたのである。
そこで初めて、GHQによってカットされたシーンに、信時潔の「海行かば」が入っていたことが明らかとなった。
ここに、小津安二郎と信時潔の最初の接点が見出されるのである。

なぜ、小津は「父ありき」のラストシーンに「海行かば」を流したのか。
「父ありき」は、「海行かば」がGHQによってカットされたから名作になったのか。
あるいは、「海行かば」が流れたとしても名作と評価されたのか。
今もって、謎の多い作品である。

「海行かば」 作曲:信時潔

その後、小津と信時は斎藤高順の結婚式において、媒酌人と主賓として再会?することになる。
信時は、1942年(昭和17年)に日本芸術院会員となった。

日本芸術院は三部門から構成されており、第一部は美術、第二部は文芸、第三部は音楽・演劇・舞踊である。
信時は1950年から1965年まで、日本芸術院第三部長という重責を担った。
一方、小津は1959年(昭和34年)3月、映画人として初めて日本芸術院賞を受賞した。
そして、1962年(昭和37年)11月、映画監督としてはただ一人日本芸術院会員に選出された。
その翌年(1963年)、小津は癌のため60歳で他界した。
信時はさらにその2年後(1965年)、心筋梗塞のため77歳で亡くなった。

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