小津安二郎と信時潔の接点 その2

1955年(昭和30年)の春、斎藤高順は赤坂の霊南坂教会にて結婚式を挙げました。信時潔と小津安二郎は、斎藤を介し媒酌人と主賓として初対面を果たしました。

小津は、昭和17年に「父ありき」という名作を公開しました。アジア・太平洋戦争が繰り広げられる最中、他の映画監督は軍の意向に基づき戦意高揚、軍国主義を肯定するような作品ばかり制作していた時代です。しかし、「父ありき」には一人の軍人も登場せず、それどころか教え子を誤って死なせてしまった教師の苦悩を描き、家族が離ればなれに暮らす悲しみを訴える内容でした。これは、遠回しに戦争や軍国主義に対する警鐘を促していたと言えないでしょうか。

特に最後の場面では、父の遺骨を抱いた息子が汽車に乗って秋田へと向かいます。車中、息子は小学生の頃から父と一度も一緒に暮らせなかったことを悔やみ、秋田では嫁の家族を呼んで一緒に暮らしたいと切望するのです。世の中が戦争一色に染まる中、このような人間愛、家族愛を描いた作品を公開することが、よく軍部から許可されたものだと思ってしまいます。

実は、この作品には隠れたエピソードがありました。「父ありき」のラストシーンは、敗戦後GHQの検閲により一部分がカットされていたのです。1945年8月、第二次世界大戦終結直前に、ソ連軍の侵攻によって満洲国は崩壊しました。ソ連軍は満洲へ侵攻したときに、日本人の持ち物を片っ端から略奪していきました。その中には、「父ありき」のオリジナルフィルムも含まれていました。

やがて、ソ連が崩壊しロシアになったとき、満州の日本人から押収したものが返還され、「父ありき」のフィルムも日本へ戻ってきました。そこで初めて、GHQの検閲によってカットされたシーンに、信時潔の作品「海行かば」が入っていたことが明らかとなりました。ここに、小津安二郎と信時潔の最初の接点が見出されるのです。

小津は、自分が好きな曲を映画の中で使用する傾向がありました。例えば、「軍艦マーチ」や「戦友の遺骨を抱いて」がそうでしたが、「海行かば」もお好きだったのでしょうか?

小津が戦争を想起させる音楽を使う場合、暗に反戦的、厭戦的なメッセージが込められているように感じます。また、信時も「海行かば」が戦争に利用されたことを後悔し、印税は一切受け取らなかったそうです。

「海行かば」 作曲:信時潔

信時は、奇しくも「海行かば」が公開された1942年(昭和17年)に日本芸術院会員となりました。日本芸術院は三部門から構成されており、第一部は美術、第二部は文芸、第三部は音楽・演劇・舞踊です。信時は1950年から1965年まで、日本芸術院第三部長という重責を担いました。

一方、小津は1959年(昭和34年)3月、映画人として初めて日本芸術院賞を受賞し、1962年(昭和37年)11月、映画監督としてはただ一人、日本芸術院会員に選出されました。その翌年(1963年)、小津は癌のため60歳で他界しました。信時はその2年後、1965年(昭和40年)に心筋梗塞のため77歳で亡くなりました。

動画について

①ブルー・インパルス ②オーバー・ザ・ギャラクシー ③オンリー・ワン・アース ④輝く銀嶺 ⑤東京物語(吹奏楽アレンジ) ⑥彼岸花(吹奏楽アレンジ) ⑦秋刀魚の味(吹奏楽アレンジ)

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