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小津監督からの注文
『東京物語』のダビングの時点で、ひとつの問題が生じました。
それは、東山千栄子さんが戦死した次男の嫁、原節子さんのアパートを訪れるシーンの音楽をめぐって起きたのです。
私はこのシーンを映画全体のひとつのヤマ場と感じましたから、特にシーンとピッタリ合う品格のあるものをと強く意識して音楽を付けました。
ところが、小津監督は「この音楽はシーンと合い過ぎて、映画全体のバランスが崩れるから、ヴォリュームを絞ってほんの小さく入れることにしよう。」と言うのです。
私はその曲の出来ばえに自信がありましたから、とてもガッカリしました。
けれども、そのあと小津監督はこう言ってくれたのです。
「ぼくは、登場人物の感情や役者の表現を助けるための音楽を決して希望しないのです。」
また、こういう風にも言いました。
「いくら、画面に悲しい気持ちの登場人物が現れていても、その時、空は青空で陽が燦々と照り輝いていることもあるでしょう。これと同じで、ぼくの映画のための音楽は、何が起ころうといつもお天気のいい音楽であって欲しいのです。」
こうした言葉によって、私は小津監督の映画音楽観をしっかりと理解できたように思いました。
それ以来、私は小津監督のために、物語の展開とよく合う感情の入った音楽を一切書いていないつもりです。
小津監督の感情移入を避ける音楽の使い方について、初めて聞いたときは驚きました。
でも、少したって考え直してみると、ムシャクシャして町を歩いているときに、楽しい音楽が聴こえてくることは私もよく経験することだし、小津監督の意見は何ら特別ではない、全くノーマルなものなんだと考えるようになりました。
そもそも、私はまだ小津監督のそういう考え方を知らない段階でも、特に嬉しがったり悲しがったりする音楽は書かなかったのです。
だから、小津監督の考え方は、理屈で理解するには少し時間がかかったけれど、実は最初から私の作曲家としての体質に合っていたのかも知れません。