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戦中のこと
上野の東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)の作曲科に入学したのは、戦争中の1943年(昭和18年)です。
同期には、芥川也寸志、奥村一、それからNHKの大河ドラマ『樅の木は残った』を作曲した依田光正がいました。
音楽学校の2年に在学中の1944年(昭和19年)頃には、当時大東亜戦争といわれていた第2次世界大戦もますます激しくなりました。
学生の特権であった徴兵猶予も廃止され、私の先輩たちも次々に戦地へ送られていきました。
将来を嘱望された作曲科の優秀な学生からも、たくさんの戦死者が出ました。
それを憂慮した当時の校長であった乗杉嘉寿氏と陸軍戸山学校軍楽隊長の山口常光氏とが、密かに話し合いの機会を設けました。
その結果、音楽学校の生徒で徴兵適齢者は軍楽隊に入れて、音楽で国のために尽くしてもらおうということに決まりました。
そして、その年に徴兵適齢者だった14名が、10月に在学中のまま軍楽隊へ入隊することになりました。
同期生には芥川也寸志、奥村一、上級生には団伊玖磨や梶原完、石津憲一、北爪規世、他合わせて14人が管打楽器を持たされたのです。
音楽学校で管楽器を専攻していた者はその楽器を担当させられましたが、作曲や弦・ピアノなどを勉強していた者は、今まで触ったこともない楽器を持たされ大変苦労させられました。
私と芥川、奥村、団は作曲専攻でしたが、私と芥川はサキソフォーン、奥村はオーボエとバズーン、団は打楽器を与えられました。
ここでは毎朝教官の指導(レッスン)があり、翌日までの宿題もあって夕食後の自由時間はもっぱら練習に費やしましたが、その上達の速さはとても今では信じられないほどでした。
我々14名は、曲がりなりにも以前から音楽を勉強してきましたが、全く音楽とは無縁だった者たちも含めて、新隊員119名がわずか8ヶ月程で各楽器をマスターし、合奏できるようになったのです。
そして全員に上等兵の階級が与えられました。