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黛敏郎さんのこと
小津組の音楽担当としてすっかり定着したと思われた1959年(昭和34年)、私にとってショックな出来事が起こりました。
「斎藤君、次の作品の音楽だが、黛敏郎君にお願いしようと思うんだが、いかがなもんだろうか。」
突然、小津監督から信じられないような相談を受けました。
あの頃の私は、小津監督の作品を手掛けたことが評価され、年間10作品近くの映画音楽を担当しており、仕事ぶりは多忙を極めていました。
連日徹夜ということも珍しくなく、気力も体力も一番充実していた時期だったと思います。
私は、「監督のご判断にお任せします。」としか言いようがありませんでした。
その当時、黛敏郎さんは新進気鋭の才能豊かな若手作曲家と目されており、前年に発表した『涅槃交響曲』は大変高い評価を得ていました。
たしか、小津監督も『涅槃交響曲』をお聴きになられていたのではないでしょうか。
映画音楽も、30歳の若さですでに80本以上手掛けており、非常に人気のある作曲家の一人であったのです。
その頃、小津映画は一部の批評家たちから、マンネリに陥っているとか、形式主義で時代錯誤、保守的過ぎる等の批判をされ始めており、そのことは私の耳にも届いていました。
全編『サセレシア』を採用した『東京暮色』が興行的に振るわず、評論家からもあまり良い評価をされなかったことを気にされていたのでしょうか。
これは、後になって笠智衆さんからお聞きしたことですが、小津監督はああ見えて意外にベストテンの順位などを気にかけていたそうです。
『東京暮色』がキネマ旬報で19位になった後、しばらくの間「俺は19位の監督だからね。」と、自虐的に話されていたそうです。
そんなこともあり、小津監督は何か新しい試みを模索していたのかも知れません。
しかし、「変わらないものが常に新しい」という信条を持つ小津監督は、『お早よう』と『小早川家の秋』の二作品は黛さんに依頼しましたが、再び私に音楽担当を任せてくださいました。