Mar 1, 2014

小津映画の音に於ける影の功労者

ようやく、BFI(英国映画協会)が運営するWebサイトの『Tokyo Monogatari』に関する記載ミスが訂正された。
新たに『Takanobu Saito Filmography』のページが追加され、やっと父の仕事が正しく掲載されるに至った。
松竹からBFIへ連絡が行ってから一ヶ月以上の時間を要したが、取りあえず一安心というところである。
幸い母の一周忌にも間に合い、法事の席では親戚や父の墓前へも良い報告ができた。

また、少し前から吉沢博のことがどうも気になるようになってきた。
吉沢博は、母方の祖母の弟にあたるが、父を小津安二郎へ推薦した張本人でもある。
吉沢は私にとっても親戚に当たるわけだが、生前ほとんど交流がなかったためどのような人物であったのか皆目分からない。
唯一覚えているのが、美空ひばり邸が近隣に立ち並ぶような渋谷の高級住宅地に、庭にプールのある立派な邸宅を構えていたことくらいだ。
元々麻布にあった住居の敷地が首都高速の建設予定地にかかるため立ち退きを余儀なくされ、その時の立ち退き料で渋谷の一等地に新居を建てたらしいという話を聞いた覚えがある。
ただ、父の回想録によると天才的な音楽家であり、小津映画の効果音や映画音楽全般に亘り絶大な力を持っていたことだけは確かである。

最近、『小津安二郎と東京物語』貴田庄著、『東京物語と小津安二郎』梶村啓二著という二冊の本を読んだが、吉沢博のことは特に触れられていなかった。
これらの書物に限らず、小津関連の書籍、雑誌の類には、まずほとんど吉沢博の名前が登場することはないのではないか。
ちょうど良い機会だったので、法事の際に親戚に吉沢のことを色々尋ねてみることができた。
父の回想録や親戚の話などを総合してみると、吉沢が小津映画に及ぼしたであろう影響は決して小さいものではないことが分かってきた。
小津はサイレントの頃より名匠と呼ばれ、独特の撮影スタイルを確立していったが、トーキー以降の効果音や映画音楽の扱いに関して確固たる理想は持てずにいたのではないだろうか。
完璧主義者であった小津の弱点は、音楽や効果音の扱い方であった可能性が考えられる。
その小津に欠落していた部分を補っていたのが吉沢だったのである。
それを如実に物語る逸話として、斎藤高順は回想録の中で次のように述べている。

小津監督は音に関しては、吉沢さんを徹頭徹尾信頼していて、ほとんど言いなりという感じでした。
作曲家の人選、音楽制作の実務、録音の指揮は当然のこと、映画の音作り全般に吉沢さんの発言力は絶大でした。
たとえば、映画のシーンの中で聴こえてくる色々な音楽や効果音。
『秋日和』だったら、モーツァルトのピアノソナタを練習している音がどこからともなく聴こえてくるとか、シーンのつなぎにポンポン蒸気の音がするとか…。
これらを実際に決めていたのは、すべて吉沢さんなのです。
ダビングのとき、吉沢さんが小津監督に付いて「ここはポンポン蒸気ね。」とか、「歌の練習をしている人が、近所にいることにしよう。」とか、「まだピアノを習いたての子供が、つっかえつっかえバイエルをさらっているのがいい。」とかを録音の妹尾芳三郎さんに言うと、小津監督が「この音、なかなかいいねえ、なかなか合ってるねえ…」と喜ぶ、いつもそんな感じでした。

吉沢博は、明治41年茨城県水戸の出身であった。
小津よりは5歳ほど年下である。
武蔵野音楽大学を卒業後、松竹歌劇団の音楽担当を務め、終戦後まもなく大船撮影所へ移動となった。
以降、主に松竹と日活の映画音楽の指揮者として約3,000本の作品に携わり、映画音楽の録音現場において「神様」と呼ばれるほどの才能を発揮した。
興味深いのは、斎藤高順という無名の作曲家を発掘し小津へ紹介したばかりでなく、自身の姪との縁談話まで成立させてしまったことだ。
こうして小津映画の作曲家を身内に引き入れた吉沢は、映画の音作り全般を完全に掌握した上で、小津芸術を音という側面から強力に支援したと言えるのではないだろうか。
斎藤高順と同様、吉沢博という音楽家を、小津映画を語る上では決して忘れてはならない偉大な存在であったと記しておきたい。

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