Apr 26, 2016

二人の恩師、小津監督と信時先生

結婚式にて_霊南坂教会信時潔先生は、父が東京音楽学校在学中に作曲をご指導いただいた恩師です。
父には生涯二人の恩師がおり、一人は小津安二郎監督であり、もう一人が信時潔先生でした。

私の兄(章一)は小津監督が名付け親であり、弟の潔は信時先生からお名前を頂戴したそうです。
昨年、『父ありき』のロシア版を京橋のフィルムセンターで初めて鑑賞しました。

『父ありき』のラストシーンに「海ゆかば」が使われていたことは知っていました。
小津監督は、フォスターなど監督自身が敬愛する作曲家の作品や、自分が愛好する音楽を使用する傾向がありました。
小津監督と信時先生の間には、すでに何某かの接点があったということでしょう。

『父ありき』の中で、教え子を事故死させてしまった笠智衆演じる元教師と、東京音楽学校で教え子たちを戦場へ送り出さねばならなかった信時先生の間には不思議な共通点が見い出されます。
学生の特権であった徴兵猶予が廃止され、東京音楽学校の学徒たちも次々と戦地へ送られていきました。
将来を嘱望された作曲科の優秀な学生からも、たくさんの戦死者が出たそうです。

「海ゆかば」は出征兵士を送る歌として愛好されましたが、戦局の悪化に伴い、ラジオの戦果発表が玉砕を伝える際に流されるようになりました。
きっかけとなったのは、1943年(昭和18年)4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が前線視察の際に、ブーゲンビル島上空で乗機が撃墜された事件でした。
ラジオからは、山本司令長官戦死の悲報と共に「海ゆかば」が流れたそうです。

ちなみに、勝戦を発表する場合は、「陸軍分列行進曲」や「軍艦マーチ」などが用いられました。
信時先生は、次々に遺骨となり帰ってくる教え子たちの無残な姿を見るにつけ、ひどく心を痛めていたとのことです。
『父ありき』のラストは、遺骨を前に苦悩する信時先生の姿そのものではないかと思われてなりません。

そして1944年(昭和19年)、信時先生の愛弟子であった父も徴兵適齢者になりました。
これ以上、将来性のある音楽学校の生徒たちを死なせてはならないと考えた信時先生はじめ教官たちは、当時の校長であった乗杉嘉寿氏へ嘆願を行ったのです。
事態を憂慮した乗杉校長は、陸軍戸山学校軍楽隊長の山口常光氏と話し合いの機会を設けることになりました。
最終的な判断は阿南惟幾陸軍大臣が下したそうですが、音楽学校の生徒で徴兵適齢者は軍楽隊へ入営し、音楽で国家のために尽くしてもらおうということに決まりました。

父は、信時先生たちの嘆願により命拾いをしたのです。
もし阿南陸軍大臣のご英断がなければ、父は外地で非業の戦死を遂げていたかも知れません。
父にとって命の恩人とも言える阿南陸軍大臣は、最後まで日本の無条件降伏に異を唱え続けました。
しかし、8月15日早朝ポツダム宣言の最終的な受諾を連合国側へ返電する直前、大臣官邸で切腹し自害されました。

父と信時先生の師弟関係は、音楽学校卒業後もずっと続いていたようです。
父は、当時の様子を次のように語っています。

「作曲の演奏会に恐る恐るご招待すると、必ず出席され、楽屋までお見えにならない代り、いつも感想を述べ、激励をされるお手紙を忘れずにお寄せ下さった。そのほか、お知らせもしないのに、映画や放送(ラジオやテレビ等の劇の伴奏)で私の作った音楽を聴かれると、その感想に助言を交えたお便りを下さる事も度々あり、その度に感動しては成長して行った。」

信時先生は、父が音楽を担当した小津映画を必ずご覧になり、その度に感想や助言を下さったということです。
すでに、信時先生は小津監督が比類なき才能を持った芸術家であることを十分に確信されていたことでしょう。

信時先生が日本芸術院会員になったのは、奇しくも『父ありき』が公開された1942年(昭和17年)でした。
日本芸術院は三部門から構成されており、第一部は美術、第二部は文芸、第三部は音楽・演劇・舞踊です。
信時先生は、1950年から1965年まで日本芸術院第三部長を務めました。

小津監督は1959年(昭和34年)3月、映画人として初めて日本芸術院賞を受賞しました。
1962年(昭和37年)11月には、映画監督としてはただ一人日本芸術院会員に選出されました。
どちらも、信時先生が日本芸術院第三部長に在任中のことです。

世間では、小津監督のタニマチ的な存在だった実業界の大物で、度々小津映画にも登場した多才な趣味人菅原通済氏が尽力したお陰と考えられていたようです。
しかし、信時先生のお力添えがあったことは間違いないと思われます。

父の結婚式(昭和30年)で媒酌人と主賓として対面した信時先生と小津監督は、この時からとても親交を深められたと父は証言しています。
信時先生と小津監督の関係はあまり語られることはありませんが、共に希有な芸術家同士相通じるものがあったのではないでしょうか。

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