石原裕次郎「小津調」を熱唱する

石原裕次郎主演の日活映画「あじさいの歌」は、1960年(昭和35年)4月に公開されました。その前年、1959年(昭和34年)11月には大映で「浮草」、さらに同年1960年(昭和35年)11月に松竹で「秋日和」が公開されています。

ちょうど、小津作品「浮草」と「秋日和」の中間頃に「あじさいの歌」は公開されており、3作品とも音楽は父高順が担当しました。父は「浮草」の音楽を作曲するため、ロケ地である三重県志摩郡大王町まで足を運び、地元に古くから伝わる民謡や盆踊りなどを調査しました。

「浮草」と「秋日和」に使われたお囃子風の音楽は、大王町波切に伝わる「波切盆踊り」を参考にして作曲したようです。「浮草」の主題曲にも、地元の雰囲気をよく表わすような民謡風の鄙びた曲を準備していましたが、小津監督の注文は全く別なものでした。

「映像と音楽が合い過ぎちゃ駄目なんだ。もっと明るくリズミカルな音楽を書いてくれないか。」小津監督からの要求に、父は少々戸惑いました。話し合いを進めていくうちに、主役の旅芸人駒十郎を象徴するような音楽で、リズムは小津監督がお気に入りだった「ビア樽ポルカ」風のポルカ調にしてはどうだろうか…ということになりました。

試行錯誤の末に誕生したのが、「浮草」の主題曲とポルカでした。中でも「浮草」のポルカは大変好評で、旅芸人駒十郎のテーマ音楽のような扱いとなり、劇中に何回も登場しました。ポルカは、その後「秋日和」と「秋刀魚の味」にも使われ、後にそれらは「小津調ポルカ」と呼ばれました。

そして、ちょうど同じ頃に撮影された「あじさいの歌」にまで、「小津調ポルカ」が使われてしまったのです。しかも、演奏を担当したのは、松竹大船撮影所音楽部に所属する吉澤博指揮アンサンブルフリージアのメンバーでした。リズム、メロディ、楽器の編成まで似通っているため、「あじさいの歌」の主題曲は「小津調ポルカ」そのものと言って良いでしょう。

当時、父の音楽は“小津調”と呼ばれることがありました。父は後になって、「何を書いても“小津調”とからかわれた」と当時のことを述懐していましたが、確かに裕次郎が歌う「あじさいの歌」は“小津調”、すなわち「小津調ポルカ」だったのです。

石原裕次郎が父の曲を歌ったのはこの1曲のみでしたが、まさかその1曲が「小津調ポルカ」だったとは、今頃天国で小津監督と裕次郎が目を白黒させているかも知れません。

■「あじさいの歌」ストーリー
商業デザイナーの河田藤助は、道で足を悪くした老人に出会った。気の毒に思った藤助は、老人を背負って家まで送り届けることにした。

老人は倉田源十郎といい、古い洋館風の邸宅に住んでいた。源十郎と藤助を出迎えたのは娘のけい子だったが、藤助はその可憐な美しさに驚かされた。源十郎が病院へ向かった後、藤助は庭に咲くあじさいの花の前で、けい子をモデルに写真を撮らせてもらった。

けい子の母は、まだけい子が幼い頃源十郎の会社の部下と駈け落ちしたのだった。源十郎はそれ以来、けい子を外出させなくなり、外部の人間との接触を禁じた。けい子の勉強は家庭教師に見てもらい、けい子が接触できるのは唯一家庭教師の葉山だけだった。藤助は、けい子にとっては久しぶりに接触を許された男性だった。

藤助が写したけい子の写真は、「あじさいの歌」と題してデパートの写真展に出展された。会場では、けい子の写真を欲しがる中年男性が現れた。その中年男性は、昔けい子の母いく子と駈け落ちをした藤村だった。やがて、けい子といく子は再会し、いく子はけい子と藤助の交際を祝福した。

倉田家の邸宅は、藤助の手によって大規模な模様替えを行うことになった。源十郎は、家庭教師の葉山と再婚することになった。久しぶりに倉田家を訪れたいく子は、変わりゆく家や家族たちを見て感慨に耽るのだった。

■キャスト
石原裕次郎・・・河田藤助
芦川いづみ・・・倉田けい子
東野英治郎・・・父源十郎
轟夕起子・・・長沢いく子
大坂志郎・・・藤村義一郎
小高雄二・・・島村幸吉
中原早苗・・・島村のり子
杉山徳子・・・葉山先生
殿山泰司・・・木村勇造
北林谷栄・・・妻元子
山田禅二・・・安田先生
片桐恒男・・・八坂先生
渡のり子・・・狭山秘書
高野誠二郎・・・吉村支配人
青木富夫・・・警官
須藤孝・・・写真展の受付

動画について

①ブルー・インパルス ②オーバー・ザ・ギャラクシー ③オンリー・ワン・アース ④輝く銀嶺 ⑤東京物語(吹奏楽アレンジ) ⑥彼岸花(吹奏楽アレンジ) ⑦秋刀魚の味(吹奏楽アレンジ)

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