追悼「厚田雄春さん」【映画撮影 No.119】より(平成5年3月10日発行)

さようなら、厚田さん|山内静夫 鎌倉CATV社長

厚田さんという人は、ウィットに富んだ粋なところと、偏屈で野暮ったいところと二つの面がありました。恥ずかしがりやで、横向いてボソッとしゃべるので、聞とりにくくて困りました。それも、非常に鋭いことを、いきなりカットで、断片的に言われるので、すぐに理解できないことがよくありました。
あだ名をつける名人でした。小津先生も思わず吹き出してしまうようなことがよくありました。発想が理詰めでなく、ひらめきなのです。下町気質なのでしょうか。
ご自分でいやだとなったら、梃子でも動かない人でした。周りが困っても曲げません。でも厚田さんは、小津先生に対していやと言ったことは、おそらく生涯に一度もなかったのではないでしょうか。それが厚田さんの“生き甲斐”だったのでしょう。
厚田さん、さようなら――。

厚田さんを偲んで|大庭秀雄 映画監督

僕が厚田さんと一緒に仕事をしたのは、昭和30年頃で『眼の壁』『残菊物語』など5〜6本であった。
一年一作の小津映画のキャメラマンとしては、多少アルバイト的な感じがあったかもしれない。
しかし、僕は生意気だったから小津組の厚田さんから小津組を除去してもらおうと思った。小津さんの映画が嫌いなわけではない。ただ、あの撮り方というか、文体はどうにも堪えられなかった。映画とはもっと流動感の溢れたものの筈だった。
僕は厚田さんが嫌がるだろうと思いながら“移動”とか“パン”をよく用いた。思った通り、それはうまくいかなくて、何度か撮り直しもでた。厚田さんは屈辱に耐える一方、ライティングの面でどうだと言わんばかりのコントラストのある強烈な画像を作りあげた。それは、小津映画のフラットな健康な美しさとは別個のものだった。逆光、不健康、退廃、そういった近代の要素を十分感じさせるものを持っていた。
おそらく、小津組から解放された自由の中から厚田さん独自のものが一瞬放った輝きのようにも見えた。
名キャメラマンとしての厚田雄春は意外にむずかしい、奥の深い人であったと思う。

私たちは小津組の同期でした|笠智衆 映画俳優

小津先生の第1回作品『懺悔の刃』(昭2)はキャメラも青ちゃん(青木勇)でしたし、私も厚田さんも縁がなかったのです。2本目の『若人の夢』(昭3)でキャメラが飯田蝶子さんの御主人の茂原英雄さんに変
り、厚田さんも小津組をやられるようになり、私も出役を貰いました。これが私達の小津組最初です。
私の入社は大正14年(1925)で厚田さんは震災前に本社にはいられたので先輩ですが、なんとなく同期という気でいました。厚田さんもそう思ってくれていたようです。小津組の人達は小津先生をはじめ皆同じぐらいの年齢で、兵役が同年兵なので、軍隊の話を始めると止まりませんでした。とにかく厚田さんは私がケチョンケチョンに小津先生にやられているのをみんな知っているんだから、頭があがらなかったんです。三宅邦子さんに続いて厚田さんにも逝かれてしまうと、ますますさびしくなります。御冥福をお祈りします。

厚田雄春さんを偲ぶ|高村倉太郎 JSC

いつまでもお元気での願いも空しく昨年の暮れ、厚田さんが亡くなられた。亡くなられたというよりは、厚田さんが終生尊敬されつづけた故小津監督のもとに旅だたれたというべきかもしれない。
厚田さんは口を開けば小津監督の話、それも常に尊敬と親しみが見事にとけ合った語り口は、厚田さんのお人柄がにじみ出て、私たちの心を強く打つ。
これ程までに尊敬と信頼に満ちた監督とキャメラマン、それを越えた人間関係は他に例がないといってよいのではないでしょうか。その意味で厚田さんは大変幸せな人生を送られたのだともいえる。
私は『父ありき』で厚田さんの助手をさせていただいた。小諸城跡、金沢のロケなど昨日の様に思い出される。
厚田さんの心と技術は、私たちがしっかりと守り伝えていきます。小津さんと酒をくみ交しながら、いつまでも見守っていて下さい。心からご冥福をお祈り申しあげます。

厚田さんとの思い出|斎藤高順 作曲家

初対面は昭和27年の秋だった。初めて音楽を担当した映画が『東京物語』で松竹大船撮影所を訪ね、映画音楽の指揮者、吉沢博氏からの紹介で小津安二郎監督と会い、打ち合わせの後各スタッフに紹介された。最初が厚田雄春氏で、彼が浅草橋に居られる事を知り、監督と同じ深川育ちの私とはお互いに親近感を覚えた。その後も監督の好きな曲を教えてくれたりした。
時々撮影現場のセットやロケーションにも顔を出したが、ワンカットごとに監督が小物の位置を変えたり外したり、畳の縁をガムテープで隠したり現実には有り得ないことをしても(カットごとの構図を絵画のようにバランスを取り美しくする為と伺った)繫がった画面は実に自然で美しく、益々厚田さんの技倆の高さに感服した。
12月12日の小津さんの誕生日には各スタッフが呼ばれて御馳走になったが、厚田さんは私のことをちょっと粋な所があると冷やかすこともあった。小津さんの没後も何と誕生日と同じ命日には、各スタッフと一緒に必ず顔を出され、小津さんの好んだ曲のレコードをすべてテープにコピーして私にくださる約束までしてくれた。しかし果たせない中に亡くなられ、しかも小津さんと同じ12月とは、何か因縁ではと思われる。
厚田さんと御一緒にさせて頂いた最後の仕事は、井上和男監督の『生きてはみたけれど』(小津さんの記録映画)だった。
心からご冥福をお祈りします。

厚田さんを悼む|井上和男 映画監督

「桃栗3年柿8年 厚田雄春15年」言い終わって厚田さんは、ひょいと首をすくめて見せた。実のなるまでの遅さを、むしろ懐しむ風でもあった。『生きてはみたけれど――小津安二郎伝』(昭58)の撮影中の話である。昭和2年、兵役を終えて蒲田に復帰、小津監督の2作目『若人の夢』で茂原英雄の助手となってから、『淑女は何を忘れたか』(昭12)茂原さんとの共同撮影を経て、『戸田家の兄妹』(昭16)で正式に小津作品の撮影を担当するまで15年もかかったことへの自負だったのかもしれない。
厚田さんは口癖のように、「俺はキャメラ番だよ」とうそぶいていたが、小津さんにしてみれば、女房役に徹する厚田さんの誠実さは何物にも替え難いものだったに相違ない。表に笠智衆、裏に厚田雄春、好一対の無言の支持者を揃えて磐石の映画づくりに専念できたといえる。
いつか瑞穂春海監督(現長野善光寺大僧正)が、述懐したことがある――「厚田さんって方は、小津流のローポジションしかお撮りにならないのかと思ったら、相手によって何でもお出来になる大変なキャメラマンですね。それこそ一週間で脚本書いたプログラムピクチャーの『あの丘越えて』(昭26)で、美空ひばりがブルーリボンをとったのは、ひばりちゃんの天才もあるけどやっぱり厚田さんのお力が大ですね」

動画について

①ブルー・インパルス ②オーバー・ザ・ギャラクシー ③オンリー・ワン・アース ④輝く銀嶺 ⑤東京物語(吹奏楽アレンジ) ⑥彼岸花(吹奏楽アレンジ) ⑦秋刀魚の味(吹奏楽アレンジ)

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