- Home
- 小津安二郎アーカイブス, トピックス, 小津安二郎映画(フィルム消失)
- フィルム消失作品より【肉体美】
フィルム消失作品より【肉体美】
小津安二郎監督作品の中から、フィルムが消失してしまい、映像を鑑賞することができない作品が17本ありますが、その中から「肉体美」の脚本をご紹介します。
肉体美
原作・脚色:伏見晃
監督:小津安二郎
1928年(昭和三年)公開
電線の見える空間
小鳥が二羽、その電線に止っている。
電柱
工夫が電線の修繕をしている。
鼻唄まじりのいい気持である。
やがてすっかり仕事が終ったらしく、そろそろ降りかけ様として、フト斜下を見てオヤッと思い、目を据えてじっと見る。
高井の家 一室
窓越しに家の中が見える。
其処には殆んど裸体の高井一郎が水瓶を捧げて物悲しい腰格構で立っている。
工夫、奇異の思い。と下から呼ばれる。
電柱の下
相棒の工夫が見上げ乍ら、「何してるんだ」と言う。
電柱の上
工夫、ひそかに相棒に「珍らしいものを見付けたんだ、登って来い」と言う。
電柱を登って行く相棒。
電柱の上
工夫、なお瞳をこらして見入る。益々不審な顔をする。
高井の横へ妻君の律子が来て、一寸姿勢を直したりするのが見える。
電柱
登って来た相棒と共に、二人は不思議そうに見ている。
高井、一寸水瓶を持ち直す。途端に自分が見られている事を発見する。
高井、目をむいて工夫を睨む。
工夫達、目をそらせて仕事をして居る様な振りをする。
高井の家の中
高井、窓の外を睨み上げ、変な格構をして居る。
律子、尤もらしい顔付でカンバスの上に筆を走らせて居る。
そして絵とモデルの高井とを一す見較べる。まるで姿態が変って居る。
律子、怒る。
高井、窓の外を指差して弁解する。
律子、窓の所へ行って電柱を見上げ、「まあ」と目を見張ったが、龍眉を逆立て、「何ですあなたがたは……」と工夫達を叱る。
電柱の上
工夫達、面喰う。
顔を見合せ乍ら、渋々下りて行く。
再びモデル台に水瓶を捧げて、物悲しい腰付をして立つ高井一郎。
出かけた欠伸を急いで噛み殺す。
律子、尤もらしい顔付で再ぴカンバスに眼を移し、筆を動かしたが、「肩が張った」と言う思い入れでパレット等を横に置いて、高井の方へ「少し休みましょう」と言う。
高井、ホッとした様子でヤレヤレと水瓶を下へ下して、腰をさすり乍らモデル台から下りる。
そして律子の横にある菓子をムシャムシャ食べ始める。
律子、ツクヅク高井を見て、「貴郎、何とかしてもう少し肥れない?それじゃまるで画にならないわ」と言う。
高井、渋い顔をする。そして、「生れ付きキャシャなところへ毎日三時間も四時間も作り付けた様に立たされちゃ肥りたくても肥れないよ」と愚痴をこぼす。
律子、聞き咎める。憤然と、「それじゃ止しましょう」と言って手荒く筆を取り上げ、カンバスを塗り潰そうとする。
高井、慌ててそれを押し止め、「直ぐそれだ、僕は何も厭やだと言った訳じゃないじゃないか」としきりになだめる。
律子、プンプンして居る。
「だってまるで私が痩せさせた様に仰るじゃありませんか」と高井を睨む。
高井、まあまあとなだめる。
律子、まだ鼻息荒く、「私が絵を描けばこそ私達の生活が成立って行くんじゃありませんか」と言う。
高井、泣面になる。「判ったよ判ったよ」
律子、なお言葉を重ねて、「貴方の様に、一家の主人であり乍ら何処の会社へ行っても断わられる様な人は、モデルで沢山です」と言う。
高井、悄然としてしまう。
内心の憤慨を堪え乍ら、食べかけの菓子を下に置いて、力なく他の窓ぎわの方へ行く。
高井、窓わくに凭れてうつむく。
フト気付いて表を見る。
外
他の電柱に登って行く工夫二人、登り乍ら覗く。
高井、渋い顔をする。
カーテンをひいて、気の抜けた様な風でモデル台に近付き、厭や厭や水瓶を捧げて立つ。まるでなっていない格構。
律子、眉をひそめる。
種々姿態を注意する。
旨くゆかないので、立って行って姿態を直す。
途端、「オヤッ」と一方を見る。
鳴っているベル。
高井、困った顔をする。
律子、高井に、「又ポーズが変るといけないからそのままじっとしてて頂戴」と言って、急いでアトリエから出て行く。
高井の家 表口
大倉(金持の爺さん)が立って居る。
待ち遠しそうにもう一度呼鈴を押そうとする。と、入口の扉が開いて律子が顔を出す。律子、目を見張る。
大倉、好色漢らしい顔付で一札する。
律子、愛想よく迎える。
「さあどうぞ」と招じ入れる。
大倉、ニコニコし乍ら、「お願いした絵がどの位出来たかと思いましてな」と言い乍ら、律子に続いて家へ這入る。
アトリエ
高井、水瓶をだるそうに下して吐息をつく。と、足音を聞き、再ぴ元の姿勢になって硬くなる。
律子、大倉を案内して這入って来る。
大倉、殆んど律子に気を取られて居て、高井の存在に気が付かない。
律子、大倉に椅子などすすめる。
高井、大倉を見て目をむく。
大倉、珍らしそうに室内を見回し、異様な高井の姿に気が付き、吃驚して逃げ腰になったが、気を落ち着けて律子に、「あれは?」と聞く。
律子、ハッとしたが何気なく、「あれは宅……のモデルでございますわ」と言う。
大倉「あ、そうですか」と安心した様に幾度も領く。
高井、激しい侮辱を感じ苛々する。
水瓶を放り出そうとしたが、律子に見られて元の姿勢に戻る。
大倉、カンバスを覗き込んで、「殆んど出来上りましたな」と、さも感心した様に、近く寄ったり離れて見たりしてほめ、律子の歓心を求める。律子、得意そうである。
高井、怖い限をして大倉を睨む。
大倉、高井と視線が合うと急いで眼をそらす。そして律子と話す。
「この次は一つ素晴しい男性美をお願いしたいですな」と言って筋骨隆々たる様を見振り手真似でやって見せる。
高井、自分の腕など見て「畜生!」と思う。
律子は快く大倉に頷いて居る。
大倉、カンバスを指さし高井の方へ少し気兼ねをし乍ら、「これが出来上りましたら何処かで夕飯でも食べ乍らなお詳しく御相談を致しましょう」と言う。
律子、領く。
高井、腹に据えかねる。傍らのパステルを取って大倉の頭へぶっつける。
大倉、吃驚する。高井の方を見る。
高井、素知らぬ顔で姿勢を作っている。
大倉、不思議そうに頭を撫でる。
律子も変に思う。
高井、隙を見て又投げる。
大倉、飛ぴ上る。高井を見る。
高井、作り物の様に姿勢を保っている。
大倉、頭を撫で乍ら天井を見る。
律子、大倉の様子が不審でならない。
一緒になって天井を仰ぐ。
大倉、隙を見て咄嗟に高井の方を見る。
高井、振り上げた手をサッと元へ戻す。
大倉、グッと高井を睨む。
高井、睨み返す。
大倉、一寸考える。
そしてポケットから金を出して高井に、「モデル君、済まないが君、煙草を買って来てくれないか、エヤーシップだ」と言って金を渡す。
高井、苛々する。
律子、「行ってらっしゃい」と目顔で知らす。
高井、仕方なく上衣をひっかけて出て行く。
部屋の外
高井、ズボンを乱暴にはき乍ら部屋の中の話し声に聞耳を立てる。
部屋の中
大倉、眼尻を下げ乍らポケットから財布を取り出し、二三枚の紙幣を律子の方へ出して、「これはこの次の分のお約束にな」と言う。
律子、嬉しそうにお礼を言って受取る。
大倉、律子の喜ぶ様子に眼を細くし乍ら、「そこで専門の事はワシにはよく判らんがどうもあのモデルは気に入らんですな、判ったらどうです」と言う。
律子、笑って答えない。
部屋の外
高井、口惜しそうな顔をし乍ら出て行く。
外
高井、澄して出て来る。
人声にヒョイと上を見る。
電柱に登っている工夫
「変なのが出て来た出て来た」と言って笑う。
高井、憤慨して去る。
アトリエ
高井、鉄亜鈴を両手に運動している。
律子、それを監督し乍ら画集を見ている。一枚の絵に見とれる。
ロダンのそれである。
律子、見較べる様に高井の方を見る。
高井、疲れた様にションボりしている。
律子、夫の姿に失望する。
そして「駄目じゃありませんか、もっとおやりなさい」と叱る。
高井、情けない顔をして再ぴオイチニと始める。が、息苦しそうに胸を押え、「僕は少し休むよ」と泣き声を出す。
律子、そっぽを向いたが思い付いた様に、「じゃ、散歩に行ってらっしゃい」と言う。
高井、「え? 散歩に? 行ってもいいのかい?」と非常に喜ぶ。そして急いで服を着替えに別室へ入る。
律子、出来上った「水瓶持つ女」の絵を包み始める。
別室
高井、服を着めかし込んで居る。
アトリエ
律子、絵を包み紐などかけて居る。
高井、顔を出して「じゃ、行って来るからね」と声をかけていそいそ出かけて行こうとする。
律子、急いで呼び止める。
高井、変な顔をして戻って来る。
律子、高井に、「ついでにこの絵を大倉さんのお宅へ届けて頂戴」と言って、包んだ絵を差し出す。
高井、嫌な顔をして、「あのひひ親爺の所へかい?」と言う。
律子、むつかしい顔をする。
高井、慌てる。
細君の御機嫌をそこねない様に急いで態度を変え、「ああいいよ、持って行くよ」と言って包みを持ち乍ら出掛けて行く。
律子、椅子に腰を下ろし、画集の素晴らしい肉体美を見て考え込む。
蓄音器のレコード
廻転し始める。と、女の手がレコードを静かにサウンドボックスの上に置く。
パーの内部
二三組の客が酒を飲んでいる。
女給の一人が蓄音器をかけている。
女給、入口を見てニコヤカに会釈して迎える。
高井が、絵の包みを抱えて澄まして這入って来る。
女主人も愛想よく会釈する。
高井はかなりの持てかたである。
一隅に腰を下し酒を命じ飲み始める。
女給、チヤホヤする。
女主人が傍へ来る。
そして絵の包みを見て、「先生、又何かお描きになりましたの?」と聞く。
高井、勿体振って「なあに一寸したものをね」と言う。
女主人、絵の包みに手をかけて、「一寸見せて項けません?」と言う。
高井、先生らしく鷹揚に頷く。
女主人、喜んで包みを開ける。
女給達も取り囲む。
高井、いい気持になっている。
包みが解かれて、律子の描いた美人の立姿が現れる。
一同、「まあ、いいわね」とほめる。
女給の一人、後から覗き込む様にして、「先生がお描きになったの?」と聞く。
高井、澄して頷く。
女給、感心する。
そして、「その絵のモデルになった人、一寸見たいわ。随分綺麗な人でしょうね」と言う。
高井、変な顔をする。
そしてモヂモヂし乍ら頷く。
女給、なお語を重ねて、「一度連れていらっしゃいよ」と言う。
高井、益々照れて生つばを呑み込み乍ら苦しく頷く。
と女給、他の客に呼ばれてそちらをむく。
他の一隅
帰ろうとして勘定をする為に女給を呼んで居る一組の客。その一人は大倉である。
女給来る。
大倉、金を払い立ち上って不図、一方を見る。
女給に取りかこまれた高井。
その横の壁へ絵を掲げる様にして見ている女主人。
大倉の方へその絵がよく見える。
大倉、おやっと思う。急いで高井の方へ近付く。
高井、独り得意になって居る。
大倉、近付いて高井を見、声をかける。
高井、大倉を見て麻胡付く。
大倉、渋い顔をして、「これはわしが約束した絵だろう」と言う。
高井、頷く。
大倉、不審そうな顔をして居る女主人の手から絵を無愛想に受取り、「じゃ貰って行くから」といって無雑作に包んで帰って行く。
一同呆然とする。
女主人、不審そうに、「どうしたと言うんですの?」と高井に聞く。
高井、一寸返答に困ったが、強いて納まりながら、「彼等は金を払えばいいと思っているんです。金以外に尊敬するものを知らないんですよ」と言う。
一同一寸意味が判らない。
高井は続けて、「ああ言う礼儀を知らない男にはこれから一切描かないだけです」と澄まして見せる。
女主人、同情する。そして、「じゃいっそあの絵も取戻しておやんなさいましよ」と言って一人の女給に、「お前、早く呼び戻しておいで」と命ずる。
高井、慌てて止める。
女主人歯がゆがる。
高井、それをなだめ、「あんな俗人を相手にすると絵が描けなくなるからね」と言う。
女主人達、感心する。
と女主人、思い付いた様に、「ね、先生」と改まって話しかける。
「妾の店の為に一枚お描き下さいませんでしょうか」と言う。
高井、ビクッとするが、さあらぬ態で「そうですなあ」と頭を撫でる。
女主人、しきりと頼む。
「お知り合いになりました記念に是非一つ……店の名誉でございますから……」
高井、断り切れなくなって引き受ける。
大倉、忘れたステッキを取りに這入って来る。
高井、気付かないで得意になって居る。
「あんなひひ親爺に絵を描いてやる事は少しでも藝術の汚れだ」
大倉、これを聞いて怒り、高井につめ寄ろうとする。
高井、気付いて慌てる。
女主人、大倉の前に立ちふさがり、大倉を罵り、「あなたはもう先生の絵を手に入れる事は出来ませんよ。でも妾は描いて戴くんです」と嘲る様に言う。
大倉、笑い出す。
女主人、「何を笑うんです」と怒る。
大倉、尚お笑いながら、「君、一杯食わされたんだよ。モデルの癖に画家だなんて、あいつに絵が描けてたまるものか」と罵る。
高井、それをさえぎろうとする。
大倉、皮肉に、「裸の先生、余り出放題を言うと本当の先生にそう言って首にしてしまうぞ!」と言う。
高井、いきり立つ。
女主人や女給達、アッ気に取られる。
大倉、嘲笑を浮べながら高井を散々に侮辱して、「口惜しけりゃ鳩ポッポの絵でも一枚描いて来い」と言う。
高井、散々にやられて悄然と出て行く。
大倉、見送って大きく笑う。
女主人・女給達、不審そうに見送る。
道
高井、元気なく帰って来る。
「精神一統何事か成らざらん」と言う仁丹の看板。
高井、心の中に頷く。不図見る。
その看板へ犬が小便をひっかけて去る。
高井、情けない顔をして去る。
アトリエ
律子、椅子にかけたままうたた寝をして居る。
と棚が撫れて壺が床へ落ちる。
律子、その音に吃驚して限を醒ます。そして不思議そうにその壺を見、棚を見る。
「どうしておちたんだろう」と思う。
と再ぴ棚が震動して物が落ちる。
律子、驚いて椅子から立ちあがる。
又震動する。
律子、益々不審、急いで一方の窓の方へ行って外を見る。
と何を見たか律子、思わず眼を見張る。
隣りの空地
砲丸投げの練習をして居る体格逞しい一人の学生遠山勇。友人二人が距離を計ったりして居る。
律子、その肉体美に見とれる。
砲丸を手に身構える遠山の盛り上った筋肉。
律子、それに魅せられる。
遠山、砲丸を投げる。
震動する棚、石膏の像が落ちて床で壊れる。
律子、吃驚して振り返る。そして急いで棚に近付き、落ちそうなものを片付けて再ぴ窓の所へ行って遠山を見る。
遠山、男性美を発揮する。(見られて居る事は知らない)
律子、考える。そして不図思い付いて床から石膏の一片を拾い上げ、そっと窓の外を見る。
遠山、砲丸を投げる。
律子、硝子窓へ石膏を投げ付ける。
地面へ落ちる砲丸。
破れる窓ガラス。
遠山、ハッとして窓の方を見る。
破れて居る窓ガラス。
遠山、友人と顔を見合わせる。
「変だなあ」と考える。
友人の一人が、「きっと石がはねて当ったんだよ。あやまって来いよ」と言う。
遠山、仕方なく上着を着て高井の玄関の方へ行く。
アトリエの中
律子、窓の隙から笑いを堪えながらひそかに見て居たが、急いで髪など手で一寸直す。
空地
友人、砲丸を掴んで、「此れがこう落ちる途端に小石がこうはねて飛んだんだよ、恐らく」などと話し合って居る。
高井の家 玄関
遠山、律子にしきりと詫ぴて居る。
律子、白ばくれて、「どの辺のガラスが割れたんでしょう」と言う。
遠山、説明しながらアトリエの方を指差す。
律子、「そうですか、一寸見ましょう」と遠山を促して奥へ這入る。
アトリエ
律子と遠山、這入って来る。
遠山、窓を見て「此処ですよ」と指差す。
律子は棚から落ちて壊れて居る物を始めて見た様な振りをして驚く。
遠山、気が付いて益々恐縮する。
「やっぱり響きで落ちたんでしょうか」と律子の顔を窺う。
律子、「そうでしょうね」と固い様な顔をして見せる。
空地
友人二人、果して石がはね飛ばされるものか、砲丸を小石の所へ投げて見る。
アトリエ
響きで棚が震動する。
遠山、「なるほど」と思う。急いで窓を開け友人に「止めろ」と言う。
空地
友人、止めて一服する。
アトリエ
遠山、改めて律子に詫びる。そして、「失礼ですけど僕弁償させて戴きます」と言う。
律子、明るい顔になって、「いいえ、いいんですよ」と言う。
「でもそれじゃ僕の気がすみませんから」と遠山、恐縮する。
律子、明るく、「じゃ、その替り妾の方から要求をしますわ」と言う。
遠山、不審。
律子、何となく恥しそうな風をして見せ、「これから毎日妾の所へ遊びに来て下さいな」と言う。
遠山、面食う。そしてうぶらしくモヂモヂしたが、「でもあなたは比処の奥さんでしょう」と言う。
律子、フフと笑って、「そんなに深刻に考えないで唯だ遊ぴに来て下さればいいんですのよ」と言う。
遠山、狐につままれた様子。
律子、遠山に椅子をすすめる。
空地
友人二人、呆んやり待って居る。
アトリエ
律子、遠山にお茶や菓子などをすすめる。
遠山硬くなって居る。
空地
待ちくたびれて居る友人二人。
「随分待たせるな。何をしてるんだろう」と、我慢が出来なくなって窓の下へ行く。
一人が四つん這いになって一人がその上に乗り窓から中を覗く。
窓越しに見たアトリエ
律子と遠山、画集を見ながら何か仲よく話をしている。律子、遠山にシャツを脱げと言う。遠山恥しがる。
窓の外
友人、呆れて降りる。
「一寸見ろよ。穏やかでねえぞ」と囁いて交替する。一人が替って四つんばいになる。その上へ一人が乗って覗く。この男の背には靴の跡が歴然と付いて居る。
高井の家の前
高井、悄然と帰って来る。
そして律子のアトリエを覗いて居る学生二人を見ると憤然としてコラコラと近付く。学生二人、吃驚する。靴の跡の付いた背中を見せながら逃げ出る。
高井、見送ったが「何を見て居たんだろう」と附近に在る壊れた箱など集める。
その上に乗り窓から覗こうとしたが、箱が壊れてしまう。不図思い付いて電柱の方へ駈けて行って、苦心して登り、家を見下ろす。
窓越しに見たアトリエの中
仲よく話をして居る律子と遠山。
遠山は律子に促されて上着を脱ぎ、男性美を見せて居る。怪しき様子に見える。
電柱の上
高井、眼をこすって見直す。愕然とする。その途端フラフラとなって落ちそうになる。慌てて電柱にしがみ付きホっとする。
ドアの外
高井、一枚の風景画とスケッチの道具を持って恐る恐る近付いてノックする。
アトリエの中
遠山をモデルにした画のデッサンに見とれて居た律子、煩そうに立ち上る。ドアの方へ行く。
ドアの外
高井、待って居る。
律子、出て来る。
「製作中に煩さいじゃないの」といきなり文句を言う。
高井、情けない顔をする。心配そうに首をのばしてアトリエの中を覗こうとする。
律子、「見なくてもいいのよ」とドアを閉め、手に持った絵を示して、「絵が一枚要るんだがこれ貰ってもいいかい?」と聞く。
律子、その絵を見て首を振り、取り上げる。
「駄目よ、これ展覧会に出す絵じゃありませんか」と言う。
高井、諦める。そしてスケッチの道具を示して、「じゃ、これを一寸かりるよ」と言って不審そうな律子を残して去る。
家の外
高井、スケッチの道具を持って出て来る。
来かかった遠山と出会う。
高井、厭な顔をする。遠山もヂロリと見る。そして家の中へ這入って行く。
高井、渋い顔をして見送ったが悄然として出かけて行く。
(意地でも絵を一枚工面しなければならない、高井一郎であった)
郊外
高井、三脚を立て、澄ましてスケッチを始めかける。薄汚い子供が横へ来て覗き込むので、煩さくでしょうがない。
ポケットから一銭出して子供にあたえ「あっちへ行っといで」という。子供去る。
高井、筆を運ばせる。
と又他の子供が来て覗く。
高井、煩さそうに一銭をあたえる。
続いて又一人。
高井、ポケットを見て、「もうこまかいのがないから駄目だ」と言う。
その子供、「あたい、お釣を持っているよ」と掌を開いて銅貨を四五枚見せる。
高井、唖然として五銭を握ってお釣を取る。
一銭を貰うべく一列にならんで居た子供の一隊、「俺が先きだ、途中から這入っちゃ駄目だ」と争って居る。
高井、呆れて道具をしまいかける。
郊外の或る場所
絵になりそうな建物の位置、瓦斯燈、植木の具合。
高井、種々位置を見てから描き始める。
(活動写真撮影隊の建てた家や瓦斯燈を真物と間違えるギャグ挿入)
出来上った高井の絵
高井、自分の絵に感心して居る。
そして額ぶちの中に入れて、満足そうに見直してから、それを抱え帽子を冠って部屋を出る。
アトリエ
高井、通り抜けようとして不図一隅を見る。
描きかけの砲丸投げの絵。
高井、自分の絵を下に置いてツカツカとその絵に近付き、憎らし気に睨み付ける。
砲丸投げの絵
高井、見ているうちに癪にさわって我慢が出来なくなる。
遂に傍らのパレットナイフを振り上げて切り破こうとする。途端、ハッとする。
律子が運送屋を一人連れて這入って来る。
高井、急いで胡麻化しナイフをかくす。
律子、高井の変な様子を不審そうにチロチロ見る。
高井、素知らぬ振りをして口笛など吹きながら出て行く。
律子、変な顔をして見送ったが、運送屋を指図して壁などに上げてある出来上って居る絵を下ろさせる。
表
高井、逃げる様に飛び出して来る。ホッとした風で出かけて行く。
アトリエ
運送屋、絵を一纏めにする。
間違って高井の忘れて行った果物の絵も一緒にされてしまう。
運送屋は律子に、「展覧会の受付へ届ければいいんですね」と言う。
律子、頷き、運賃など払う。
運送屋、絵を担いで出て行く。
道
歩いて居た高井、絵を忘れた事を思い出しハッとする。急いで引きかえす。
家の前
運送屋、絵を担いで帰って行く。
入れ違いに高井戻って来る。
家へ這入る。
アトリエ
律子、砲丸投げの絵を見ている。
振り返る。
高井が這入って来る。
キョロキョロ見回す。
「ハテナ、何処へ置いたっけ」と果物の絵を探す。無い。
仕方なく律子に聞く。
律子「知りませんよ」と無愛想に答えて又砲丸投げの絵に見とれる。
高井、ムカムカする。
なお探す。
(数日の後……)
高井の家 玄関
高井、元気なく箒を持って掃除をしている。
新聞記者が三四人、写真機などを持って這入って来る。
そして高井に、「新聞社の者ですが先生は御在宅ですか」と聞く。
高井、力なく頷いて奥へ這入って行く。
間もなく出て来て案内する。
アトリエ
律子、描きかけの筆を止め、モデルの遠山にも休む様に言ってひどくそわそわする。
新聞記者、ぞろぞろ這入って来る。
記者の一人が、「帝展入選のお祝いに上りました」と言う。
律子、有頂天になってしまう。
「まあ入選致しましたの」とワクワクする。
入口で高井、悄然として居る。
律子、高井に、「早くお茶の用意をして頂戴」と言う。
高井、泣きそうな顔で引き下る。
新聞記者、椅子に腰を下ろして、「就ては早速先生の御感想と写真を一枚撮らして戴きたいと思いまして……」と言う。
律子「まあそうですか」と澄まして話しかける。
新聞記者、顔を見合す。
新聞記者の一人が言う。
「先生はお留守なんですか」
律子、面食う。不審そうに、「妾が高井律子でございますが」と言う。新聞記者麻胡付く。
「いえ、高井一郎先生をお尋ねして居るんです」と言う。律子、驚き呆然とする。
入口
お茶を運んで来た高井、これを聞いて吃驚する。お茶を持ったまま引込んで外で耳をすます。
新聞記者、手帳を見ながら、「入選になったのは静物で確か果物の絵でした」と言う。律子、思い当る。
高井はハッとして思い当る。歓喜の表情で急いで引込むと、上着を着て澄してそり返りながら先生らしく出て来る。
そして澄して皆に会釈する。
記者達、アッ気に取られる。
「あなたが高井一郎先生ですか」
高井、納りかえって頷き、引込の付かない律子に、「お前、お茶を持ってお出で」と言う。
律子、こそこそと去る。
記者達、「どうもお見それしまして」と恐縮しながら急いでカメラを向ける。パッパッとマグネシュームが燃える。高井、澄している。
(新聞に載って居る高井の写真と入選の記事)
酒場の中
女主人や女給達、その新聞を見て騒いで居る。大倉が大きな顔をして這入って来る。
女主人、ツカツカと大倉の前に立ちふさがって「お帰り下さい」と言う。大倉おどろく。女主人、新聞を大倉に見せる。
大倉、茫然とする。そしてすごすごと帰って行く。
一同愉快そうに笑って見送る。
アトリエ
高井、絵を描く用意をして居る。モデル台に律子が立っている。高井、パレットを片手にカンバスに向いながら律子に、「着物を脱がなきゃ駄目だよ」と言う。律子、うらめしそうに帯を解き始める。律子の方を見て居る高井、次第に眼を細くする。(律子が裸体になる感じを高井一人で表情を現したいと思います)
高井頷いたが、「それも取ってしまうんだね」と言う。
律子、承知しないらしい。
……高井一寸怖い顔をして「取りなさい」と言う。律子一糸だに纏わない姿になったらしい。高井一寸まぶしそうな顔をしながら筆を動かし始める。満悦の表情。
完
(昭和三年十月三十一日製本)