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フィルム消失作品より【宝の山】
小津安二郎監督作品の中から、フィルムが消失してしまい、映像を鑑賞することができない作品が17本ありますが、その中から「宝の山」の脚本をご紹介します。
宝の山
原作・監督:小津安二郎
脚色:伏見晃
1929年(昭和四年)公開
盆の上に並べられた四つの茶碗。
それへ優しい女の手が茶を注ぐ。
周囲から三人の女の手がそれを一つずつ取り上げると、盆の上には一つの茶碗が残る。
芸者屋梅廼家の一室である
お茶をいれて羊かんを食べて居るのは此の家の女将と、娘の染吉、抱えの若勇と麦八である。
が、残った茶碗へ手も出さず、変に澄まして居るのは麦八。
と、染吉、不審そうに、「お茶を呑むと色が黒くなるってね」と麦八を冷かす。
麦八、一層澄まして、つき襟などし乍ら、「好きな人の為にお茶まで断ってるのよ」と言う。
そして鼻をこする。
染吉、若勇、共に笑う。
同時にお茶を飲みかけて居た女将、思わず噴き出してお茶にむせぶ。
若勇、急いでハンカチで女将の膝など拭く。
女将、漸く笑いを止めて、「笑わせないで、風邪薬でもお飲みよ」と言う。
麦八、膨れ面をして盛んに羊かんをつまむ。
と染吉がそれを止めて、別の盆に湯呑のお茶と羊かんを分けて、未だ食べたそうにしている若勇に、「これ、丹さんの所へ持って行って頂戴」と言う。
若勇、不精不精立上る。
と、お茶なしで余り食べたのでシャックリが出る。
そのシャックリで盆の上の湯呑みが倒れそうになるのを慌てて止めながら、階段の方へ行く。
階段の下
上って行こうとする若勇と降りて来た丹次郎と危うく衝突しそうになる。
若勇、吃驚する。
丹次郎、「これはどうも」と早速羊かんをつまんでお茶を飲む。
その間、じっと盆を持って居る若勇は、変な顔をして居る。
染吉、外出姿の丹次郎を見て不審そうに、「何処かへお出かけ?」と聞く。
丹次郎、元気なく頷いて染吉の方へ来て、「叔父さんとこから余り返事が来ないから直接ぶつかっで見ようと思うんだよ」と言う。
「真実?」と染吉、少し疑い深い。
丹次郎、「嘘なんか言うものか」と言う。
染吉、探るように、「そんな事言って蝶子さんに会いに行くんじゃないの?」と言う。
丹次郎、「冗談言っちゃいけない」と否定して懐中のがま口を出し、中の貧弱さを示す。
染吉、少し安心して、「じゃ行ってらっしゃい」と言ったが、不図思い付いて、出て行こうとする丹次郎を呼び止め、帯の間から財布を出して五十銭玉を三つ四つ。
「電車賃よ」と言って渡す。
丹次郎、嬉しそうに頷いて、受取ると土間へ降りる。
染吉、上り框に立っている。
女将と麦八、一寸顔を見合わす。
「ふふ、お睦じいことで……」と言った顔。
梅廼家の表
丹次郎、出会い頭に郵便配達夫と出会う。
配達夫、宛名を確めて封書を一通渡し、ニヤニヤ丹次郎の顔を見て笑い乍ら去る。
丹次郎、不審そうに見送ったが封書に眼を移す。
封書 新橋××町 梅廼家気附 芝山丹次郎殿
そして裏に石塚金右衛門としてある。
丹次郎急いで封を切って読む。
次第に失望の顔色となり、手紙を持ったまま元気なく又家の中へ戻って行く。
家の中
不審そうに入口の方を見る染吉。
女将、麦八、若勇。
その横を詰らなさそうに鼻くそをほじり乍ら丹次郎が二階へ上って行く。
染吉、不審そうにあとからついて行く。
二階 丹次郎の部屋
丹次郎、がっかりした様に這入って来て座り、手紙をもう一度読み直しかけたが、いまいましそうに破きかける。
染吉が不審そうに這入って来て、「どうしたの?」と聞く。
丹次郎、吐き出す様に、「あっさりやられたよ」と言って破いた手紙を染吉の方へ差しだす。
染吉、その一片を手に取って読む。
手紙の一片
しかし芸者屋に居候をするなど以ての外。
なに、今後金子の無心は勿論出入りも絶対厳禁。
などと書いてある。
染吉、「まあ」と呆れ、「随分頑固な叔父さんね」と言う。
丹次郎、うむとしょ気る。
階下
女将と麦八と若勇が話をして居る。
電話がかかって来る。
若勇、電話を聞いて二階へ。
「染吉姐さん、お座敷よ」と呼ぶ。
丹次郎の部屋
染吉、階下の声を聞いて返事をしてから、姉の様な風で丹次郎を慰めて下りて行く。
丹次郎、つまらなさそうな顔。
階下
染吉、降りて来て仕度を始めると女将が、「どうしたんだい?」と聞く。
染吉、事の次第を話す。
女将、渋面を作る。
抱えの小浪が、元気よく風呂から帰って来る。
女将、不機嫌そうに一寸柱時計を見て、「お湯屋が遠くへでも引越したのかい?」と嫌味を言う。
折角元気に帰って来た小浪、一寸しょ気る。
若勇に眼で知らされて、「どうもすみません」と一寸詫びて、二階へトントンと上って行ってしまう。
染吉、支度が出来、若勇に石を打って貰って出かけて行く。
二階 抱えの部屋
小浪、鏡台の前へ来てペタンと座り、懐中から長二郎のプロマイドを出す。
隣室
退屈そうな丹次郎、ねそべって唐紙を細目にあける。
小浪、長二郎のプロマイドを見て一寸見とれる。
と背後の襖が開いているので急いで納ってお化粧をつづける。
細目に開けた襖の間から、丹次郎が小浪を見る。
化粧をして居る小浪の後姿。
丹次郎、何か思い付いて小浪に声をかける。
ニヤニヤしながら、「お前ね、耳蔭しだってきっと似合うよ」と言う。
小浪、「妾が?」と言ったがツーンとして、「お生憎様、お門違いでしょう」と言って向うを向いてしまう。
丹次郎、仕方なく自分の部屋へ引込む。
丹次郎の部屋
丹次郎、突然思い付き、先刻染吉から貰った五十銭玉を袂から出して勘定して、急いで帽子を冠る。
襖を開けて小浪が首を出す。
小浪言う。
「お兄さん、髷にしたら似合うでしょうね」
「お生憎様、お門違いでしょう」と丹次郎。
「何処へ行くの?」
丹次郎、「いやんなっちゃうなあ」と言った顔で、「散歩に行くんだよ」と言って手に握った五十銭玉の一つを小浪に渡し、「染吉に余り告げ口しちゃ駄目だよ」と言って出かけて行く。
小浪も自分の部屋の方へ戻る。
郊外の道
一台の自動車が走って行く。
自動車の中
揺られて居る丹次郎、心配そうに賃銀のメーターを覗き込む。
メーター
一円四十五銭、一円五十銭と変って行く。
丹次郎、握って居る金と見較べて居たが、一杯一杯になって来たので、「あ、此処で宜しい」と車を停めさせて降り、金を払って歩き始める。
蝶子の家の外(立派な邸宅)
丹次郎、やって来て覗く。
庭で蝶子が犬と遊んで居るのが見える。
丹次郎、元気付いて垣根の外から口笛を吹いて呼ぶ。
蝶子、気付く。
そして一寸家の方を気遣うように振りかえって見てから、丹次郎の方へ駈けて来る。
蝶子と丹次郎、垣根を間に話す。
蝶子、家の方へ気をかねる様に、「今、うちへあなたの怖い叔父さんが来ているのよ」と言う。
丹次郎、ビクッとして首を縮め恐る恐る家の方を見て、「そうかい?」と小さくなる。
蝶子の家の一室
蝶子の父と丹次郎の叔父がしかつめらしい顔で話をしている。
蝶子の父は厳かに、「丹次郎の素行が直らん以上は蝶子の婿も別に選定せんければなりませんからな」と言う。
叔父、「御尤もです」と領いて、「ああ言う父祖君を恥しむる奴には決して御しん酌なく……」と話をしている。
垣根を間にした丹次郎と蝶子。
蝶子、少し憤慨の様子で、「アパートに居るなんて、嘘ついて芸者屋にいるなんて、あなたも不了見よ」と言う。
丹次郎、一寸困る。
蝶子、語をついで、「アンクルや親爺の話は兎も角、あなたと私の間で話をハッキリする必要があると思うわ」と言う。
丹次郎、仕方なく頷く。
と、家の方を見てハッとする。
蝶子もハッとして玄関の方を見る。
遥かに見える玄関。
辞し去ろうとする叔父。
送り出す蝶子の父。
蝶子の父、一礼し乍ら、では又いずれ、と言う。
叔父、一礼して去りかける。
丹次郎、垣根の蔭にかくれる様にしながら、蝶子に慌てた調子で、「さようなら」と言って逃げる様に去る。
蝶子、見送る。
梅の家 階下
女将が長火鉢の横で夕刊を読みながら煙草を吸っている。
その横にお茶挽きの麦八が不景気な顔をして座っている。
女中のお竹が買って来た敷島とお釣りを長火鉢の猫板の上に置く。
女将、頷いただけで見向きもせず新聞に読み耽っている。
丹次郎が浮かない顔付で帰って来て、二人に会釈すると二階へ上って行く。
麦八、一寸何か考える。
麦八、ソッと手を伸ばし、敷島の上の二銭を横へ置いて敷島だけを失敬し、何食わぬ顔付きで立ち上り、二階へ上って行く。
女将、ちらと麦八の方を見たが又新聞に目を移す。
二階 丹次郎の部屋
丹次郎、刻み煙草の粉を掻き集めて、煙管で煙草を吸う。
ひどく不味そうである。
其処へ麦八が鼻をこすり乍ら這入って来て、机の上へ敷島を置く。
丹次郎、「ヨオこれはこれは」と喜ぶ。
麦八、無遠慮に机の抽斗から便箋を取り出して丹次郎の前に拡げ、「手紙を書いて頂戴な」と言う。
丹次郎、仕方なく渋々ペンを取り上げる。
「何んて書くんだい?」
麦八、「そうね」と考えてから、「ひと筆しめし参らせ候」と口述する。
麦八、尚いろいろと口述する。
丹次郎、困りながら渋々書くうちに又麦八が、「惚れた証拠にお茶迄断って苦労奉り候」と言うに至ってペンを放り出したくなる。
が、我慢して書きつづける。
丹次郎、書き終った手紙を麦八に渡す。
麦八、受け取り、改めて姿態を作りながら、丹次郎へその手紙を差し出す。
丹次郎、アッ気に取られる。
「どうしたんだい?」
麦八、身体をくねらせながら、さも恥し気に、「ねーー妾の気持判ったでしょう?」と言う。
丹次郎、唖然として戦慄する。
麦八、すり寄ろうとする。
丹次郎、逃げ腰になって、「いくら暇だって冗談するなよ」といささか恐れをなす。
麦八、俄然態度を変えて、プーンと膨れる。
階下
女将、煙草を吸おうとして敷島がないので、女中のお竹を呼ぶ。
女将、お竹に、「お前、敷島何処へ買って来たんだい!」
二階
麦八、おどろく。
丹次郎が正に破こうとする敷島を持って去る。
丹次郎、あっけにとられる。
階下
女将、仕方なく煙管で煙草を吸い始め、再び新聞を読む。
麦八、女将の横へ来る。
そしてソッと敷島を元通りに置く。
女将、ポンと煙管をはたく。
拍子に猫板の上の敷島を見て、「オヤ」と思い、麦八の方を見る。
麦八、横を向いて澄ましている。
女将、敷島と麦八の顔を見較べて変な顔をする。
丹次郎の頭
アイロンが当てられている。
当てて居るのは小浪である。
丹次郎は髭剃りの後らしく、顎など撫でて納っている。
其処に染吉が、御座敷の帰りらしく、多分酔って帰って来る。
丹次郎の傍に居る。小浪に、「帰りに歌舞伎に寄って来たけれどいつ見ても橘屋はいいわね」
小浪、相槌を打ちながら隣室に去る。
染吉、煙草を出して吸う。
丹次郎もソッと手を出して一本取る。
染吉、職業意識からマッチで火をつけてやろうとしたが止す。
マッチを投げ出す。
丹次郎、止むなく放り出されたマッチを取り上げて自分でつける。
丹次郎、半ば御機嫌を取る様に半ば皮肉に、「大分いい御機嫌だね」
染吉も同様に、「大きに、悪かったわね」
染吉、コテのかかった丹次郎の頭を少し振る。
丹次郎、頭を引込めて櫛を当てる。
丹次郎、羨しそうな思い入れ。
そして丁度いい時とばかり空のがま口を見せて、「少し入れとくれよ」と無心を言う。
染吉、横を向いてしまう。
「金のなる木を持ってる訳じゃなし、そうそうは駄目よ」とあっさり断られる。
丹次郎、一寸膨れる。
染吉、鼻の先で笑って空の外に出て行く。
染吉、階段を降りて行き、一寸可哀そうだったと言う思い入れにて、天井を見上げる。
丹次郎の部屋
丹次郎、チェッと舌打ちして櫛を入れた頭を再ぴ自分でムシャクシャに掻きむしって不貞腐れた様子でゴロリと横になり、ドシンドシンと足を机の上へ乗せる。
(その翌る朝)
畳の上
新聞が乱暴に放り込まれる。
寝ていた丹次郎、まぶしそうに眼を開ける。
そして渋々と起き上ると机の抽出しから歯ブラシとチウブの歯みがきを出して、それを両手に大きな伸びをする。
と、チウブを持った方の手に力が這入って、歯みがきが油絵の具の様にニョロニョロと出る。
丹次郎、慌ててそれをブラシに付けて口に入れる。
階下
染吉、丹次郎の食膳を持って二階へ上がろうとしたが、何を思ったかお竹を呼ぶ。
お竹来る。
染吉、お竹に丹次郎の膳を運ばせる。
二階
丹次郎、障子を開けて物干しへ出て、口を磨きながら、映ぶしそうな眼付きであたりを見廻す。
階段近くの障子が開いて、食膳が差し出される。
丹次郎、早速見に行く。
膳の上にある貧弱な朝の献立。
丹次郎、不服そうに又物干しの方へ戻る。
と飛行機の爆音。
丹次郎、急いで空を仰ぐ。
いかにもいいお天気を喜んで居る様に飛んで行く飛行機。
と丹次郎、仰いで居た眼を急に下の道路へ転ずる。
と、丹次郎急いで室の中へ駈け込み、机の抽出しゃ刻煙草入れの中などを探す。
が、二銭位しかない。
と思い付いて壁を見る。
貼ってある大入袋。
丹次郎、急いでその一つから五銭を抜き取って階段の方へ。
駈け降りる丹次郎。
女将、染吉などが吃驚して居る室内を通過する丹次郎。
格子戸を開けて飛び出す丹次郎。
前方へ「オーイ」と呼ぶ。
呼び止められたのは納豆売りの少年である。
丹次郎、その少年から納豆を買う。
少年は学帽を脱いで一礼して去る。
丹次郎、一寸考えるが思いかえして、納豆を振り廻しながら家の中へ這入る。
家の中
丹次郎、納豆を提げたまま渋面に勝手の方へ行く。
女将と麦八と染吉ーー染吉、新聞を読んでいる。
丹次郎を見送る。
麦八は女将に告げ口をする。
女将、茶を注ぎ乍ら麦八の言う事を聞いている。
と、茶呑に茶が一杯になりこぼれる。
女将、丹次郎に当る。
丹次郎、八つ当りを軽く斥ける。
染吉、黙って多少俯きかげん。
丹次郎、腰に納豆を提げ、顔を拭き乍ら二階へ上って行く。
染吉、一種変った眼で見上げる。
二階
上って来た丹次郎、膳に向っていざ納豆をお菜に食事を仕様として茶碗を取り上げて、オヤと膳の上を見る。
茶碗で伏せであった染吉心づくしの十円紙幣。
丹次郎、急いで取り上げひろげて見て、「矢っ張り実があるなあ」と嬉しい思い入れ。
とフト隣室の方を見る。
障子にハタキをかけているお竹の手。
丹次郎、フト思い付いて、小言でお竹を呼ぶ。
お竹、入って来る。
丹次郎、お竹に、「大急ぎで鰻丼を一つ」と言う。
お竹、「まあ」と目を見張ったが、丹次郎の手に持った紙幣を見ると頷いて去る。
丹次郎、再び床の中へもぐり込んで嬉し相に十円札を見る。
階下
電話のベルが鳴っている。
茶の間に染吉、麦八、女将がいる。
染吉が立って行って聞く。
女の声で丹次郎への電話。
面白くない。
丹次郎を呼ぶ。
階上
丹次郎、電話と言われて起きる。
階下
丹次郎、降りて来て染吉に金の礼を言う。
が、染吉、ツンとしている。
不審に思い乍ら電話口に出る。
電話口にて蝶子、「モシモシ」
丹次郎、笑い顔にて染吉の方を向く。
怖い顔の染吉、麦八。
丹次郎、少しくテレル。
「ハイハイ」
蝶子、「あのーー丹次郎さんですか」
丹次郎、染吉の方を再び気にする。
染吉、丹次郎に、「蝶子さんからかかって来たんでしょう」
丹次郎、「いや違う」と言う。
電話口をふさいで、「相手の人は男だよ」と言う。
「ハイハイ」
蝶子、「あのね、今日ね、三時頃から家へ遊びに来ない?」
丹次郎、少し考えて染吉の手前男の様に、「承知しました。とにかく参りましょう」と染吉の方を気にして、「どうか奥さんによろしく」と電話を切る。
蝶子、呆気に取られて、「モシモシ」と言葉をつごうとするが、切れているので断念する。
丹次郎、火鉢の傍に行くと、染吉、ツト立って鏡台の方に行ってしまう。
丹次郎、止むなく二階に上って行く。
階上
丹次郎、二階に上って来て、又寝る。
新聞を読み乍ら煙草を吸う。
階下
麦八、フト勝手口の方を気にする。
勝手口
鰻屋が来て、丼を置いて行く。
女将や染吉は、鏡台の前で着物や帯地を見ている。
麦八素早く、素知らぬ風で勝手の方に行く。
女中のお竹は、玄関の格子を拭いている。
麦八、台所に来て、他の人の目につかぬ様に丼を喰いかける。
お竹、玄関の掃除を済ませて上って来る。
麦八も何喰わぬ面で火鉢の傍へ戻る。
そしてそっと口のまわりを拭う。
お竹、勝手へ這入る。
お竹、鰻丼を持って出て来て、二階へ上って行く。
二階
お竹が鰻丼を持って来たので、丹次郎、すっかり喜んで、膳など机の下へ押し込んで鰻丼を引きよせ、先ず衛生割箸という奴を割る。
と楊子を包んだ辻占が落ちる。
丹次郎、それを拡げて見る。
辻占
「先んずれば人を制す」
丹次郎、フンと放り出してやおら丼の蓋を開けて見て、アッと驚く。
己に先んじた奴の為に丼は綺麗に空になっている。
丹次郎、驚く。
蝶子の家 一室(夜)
丹次郎と蝶子が話をしている。
蝶子は少し癇癪を起している。
「随分煮え切らないのね。芸者屋を出るか出ないかハッキリ言えばいいじゃないの」と言う。
丹次郎、至極呑気な顔で、「そう簡単にも行かないんだよ」と言う。
蝶子、「まあ」と目を見張る。
御待合 名月の表(夜)
全座敷、遊興の客。
染吉と若勇、小浪が酒席を斡旋している。
客の一人が染吉に、「好きな男が家にかくまってあると言うじゃないか」と肩を叩く。
染吉、胡麻化そうとするが、胡麻化し切れない。
客、一層ひやかす。
梅廼家の階下
女将が爪弾きで何かやっている。
お茶挽きの麦八が話しかける。
「情人があると言うだけでもうるさいのにそれが家に居候をして居ちゃ人気の落ちるのも無理ないわ」と言う。
女将、不愉快相に三味線を下に置く。
麦八、尚話を続けて、「第一、居候の癖に朝飯に鰻丼を取るなんて……口惜しいから私が食べちまったけど、お女将さんがよく黙っていると思って……」と言う。
女将、益々不機嫌になる。
丹次郎が帰って来る。
そして「只今」と言い乍ら、長火鉢の猫板の上へ土産の包みを置いて、「歌舞伎座に行って梅暦を見て来たよ」
女将、ツンとして土産物を他の妓の前に置いて皮肉に言う。
「お兄さんがお土産だってさ」
他の妓、包みを解いて喰べる。
女将、ムカッ腹で芝居の講釈をしている丹次郎に、「お前さんの様な居候が高いお金を出してイチムラサン橘屋の丹次郎を見るとてないよ」と言う。
丹次郎、痛い所を言われてしぼしぼと二階へ上って行く。
それを見送ると女将、横から「こちらへお貸し」と妓がムシャムシャ喰べているのを取り上げて食べる。
朝である。
茶の間に染吉、麦八、女将等いる。
麦八、女将に油を注ぐ。
染吉は新聞を読むともなく見ている。
「私は余りその方面は知りませんけれど、居候なんてあんな風でいいものでしょうかね」と麦八、女将をそそのかす。
そして染吉にも、「私が言うのも変なものだけど、少しは姐さんも考えなきゃ駄目よ」と注意顔。
と、電話のベルが鳴る。
麦八、電話口に出る。
顔色が変る。
元の席に戻る。
染吉に大発見でもした様に、「丹さんの所へ女の人から電話よ」
染吉も真剣になる。
麦八、考えて染吉を連れて電話口に出る。
蝶子、「モシモシ丹さん?」
麦八、染吉、顔見合せて丹次郎の声色にて「そうです」
蝶子、「昨日一日逢っていて今日電話かけるのは変だけれど、急に用が出来たのよ」
二人、「畜生」と顔見合せて、麦八、染吉に耳打する。
蝶子、「モシモシ」
麦八、男の様に、「急に用って何だい」
蝶子、「逢って話がしたいのーー電話じゃ言えないわ」二人、腐る。
蝶子、「モシモシ」と甘ったれて、「化け物相手にしてないですぐ来て頂戴よ」
二人、腐る。
皮肉に受話器をかける。
麦八、染吉に、「だから私の言わない事じゃない」と得意になる。
そして、女将に同意を求める。
女将が「そうだとも」と麦八に答えて、染吉に言う。
「お前があんまり甘くするからだよ」と皮肉に言う。
それを聞く染吉、ムカムカとして二階へ上って行く。
二階
丹次郎、陽当りの物干でサキソホンをふいている。
いきなり染吉、入り来る。
そして室の中へ引きずり込まれる。
部屋の中
丹次郎、面喰う。
染吉、丹次郎を睨み付け、「余り人を馬鹿にしないで頂戴!」と言う。
丹次郎、吃驚する。
染吉、丹次郎には一語も言わせずまくし立てる。
「黙ってりゃいい気になって居候は居候の様にするものよ」と散々悪口を言う。
丹次郎も余り激しくやられたので、遂にムッとなる。
「お前の口から居候と呼ばれ様とは思わなかったよ」と中腹になる。
染吉、フンと鼻で受け、「大きな事をお言いでないよ。居候だから居候だと言うんじゃないか」と言う。
丹次郎、カッとして、「嫌に邪魔にするなあーー出て行けばいいんだろう」と言って着物を脱ぎ始める。
染吉は、「どうぞ御随意にーー」と言って降りて行ってしまう。
丹次郎は、止めて呉れるかと思った染吉があっさり降りて行ってしまったので、一寸呆然としたが、「ええいッ」と思って戸棚の中から洋服等を取り出して着替え始める。
階下
染吉、不機嫌な顔で女将の横へ来て坐る。
女将と麦八、顔を見合せる。
丹次郎、すっかりモダンボーイになって階段を降りて来る。
そして女将の所へ来て、「どうも長々御世話になりました。では御機嫌よう」と簡単に言う。
女将、女中に、「お竹や、二階の部屋を綺麗に掃除しておくれ」
丹次郎は一同をあとに上框へ行って、靴をはき始める。
麦八、目をパチパチさせて居たが、何を思ったか、「待って頂戴、私も一緒に行くからーー」と立ち上って丹次郎の傍に行く。
丹次郎、「冗談するな」と麦八を押して出て行く。
麦八、尚も後を追おうとする。
丹次郎、行ってしまう。
じっとこらえている麦八、ワーァと泣く。
女将、笑う。
染吉も堪えている。
麦八、火鉢の傍に戻り、シャクリ上げる。
女将、「何だい」と笑い、染吉を見る。
染吉も堪えて面をふせる。
女将、染吉に「ね、お前ーー」
「ね、お前、よくその気になってくれたね」
染吉、「だまって頂戴よ」と女将に言い、灰文字を書く。
ガラリと格子が開く。
染吉、振り返る。
ビラマキ屋がビラを入れて行く。
そのまま染吉ガッカリしてうなだれる。
日当りのいい蝶子の家の玄関
犬が横になっている。
其処へ自動車の影が来て停る。
車から降りる丹次郎。
出迎える女中。
丹次郎、家の中へ這入って行く。
丹次郎、一室へ通される。そして落着かない風でネクタイを気にしたり、洋服の前を合せたりしている。
蝶子が這入って来る。
丹次郎「や、今日は」と元気よく頭を下げ、「僕、断然飛び出して来たんだ」と言う。
蝶子、「ソオ」と気の無い様子で、「あなた、あんまり煮えきらないから、あたしもう決めちゃったわ」と言う。
丹次郎、不審。
蝶子ニコニコと、「帝大出のスポーツマンよ、ステキよ」と言う。
丹次郎、一寸しょ気る。
が強いて元気を出して、「じゃ、左様なら」と帰りかける。
蝶子、呼び止めてポケットから紙幣を若干出して、「婚約の違約金よ」と言う。
丹次郎、モヂモヂし乍ら受取る。
(その日も暮れました)
梅廼家
火鉢の傍に女将、染吉、麦八などいる。
時計を見たり、占いをやったり、丹次郎の帰りを待っている。
染吉、女将に、「ね、おっ母さん、丹さんの為に随分楽をした時もあったじゃないの」
女将、「そりゃあったよ」
染吉、「それに居候扱いにして追い出すなんてあんまりだわ」
女将、「あたしゃあんまりこの妓が言うものだから遂その気になってね」
麦八、又泣き出す。
染吉、愚痴る。
「そりゃ私も少しは言い過ぎたけれどーー」
「犬だって三日飼えば三年恩を忘れないって言うじゃないの」と皆しょんぼりする。
台所の口に坐っていた女中、「この春、三毛が居なくなった時、皆でこんな気持になりましたね」
染吉、女中を睨んで、「丹さんと猫と一緒にするでないよ!」
女中、驚く。
と箱屋が来る。染吉の御座敷を言う。
染吉、浮かない。
女将、機嫌を取る様に、「元気を出して行っといでよ」
染吉、いやいや立つ。
他の子、いそいそと姐さんの持ち物を出す。
箱屋、姐さんの物等並べる。
花柳街
何処となく賑やかな艶めかしい空気。
威勢のいい人力車に乗った染吉が或る待合の前へ人力車を止め、車夫に三味線を持たせて中へ。
待合の廊下
女中を先に、染吉座敷へ行く。
座敷の前で膝をつく。
(部屋の中から)
障子を開けて「今晩は毎度あり……」と顔を出して染吉、「まあ」と呆れる。
座敷の正面
床の間を背に脇息にもたれた丹次郎。
染吉、「どうしたの」。
丹次郎の近くへ行く。
丹次郎、強いて笑い、「どうもこうも無いよ。みんなお終いさ」と言う。
染吉、まじまじと丹次郎を見る。
丹次郎、ポケットから財布を出して、お金を全部紙幣取りまぜて染吉の前へ出し、「お前さんにも毎度御厄介になった。少ないけれどお礼だよ」と言う。
染吉、目を見張る。
丹次郎、ノッソリ立ち上って、「これで本当に左様ならだ。皆に宜しく言っとくれ」と帰って行こうとする。
染吉、慌てて、「それで、あんたどうするの?」と言う。
丹次郎、元気なく笑って、「どうにかなるさ」と言って出て行く。
染吉、一人残されて俯く。
廊下
丹次郎、出て来たものの、染吉が止めてくれないので困る。
又忍ぴ足で戻って座敷の中を窺う。
そして思い切って行こうとして迷う。
そして再び座敷へ這入って行く。
座敷
俯いて居た染吉、「オヤ」と思う。
丹次郎、丁度忘れてあった煙草を取ってポケットへ入れ、前に同じように、「煙草にも明日から不自由するからな」
「じゃ皆にくれぐれも宜しくね」と言って出て行く。
染吉、このまま別れ得ない気持が湧き起る。
「丹さん」と呼んで追う。
廊下
丹次郎、立止まる。
染吉、追い付いて情を見せ、「どうかなるだけで妾としてほって置く訳にはゆかないね」と言う。
染吉、心の中で喜ぶ。
染吉、じっと見上げて、「もう一度うちへ戻って頂戴」
「どうかなるまででもいいから家に居て頂戴」と言う。
丹次郎「そうかい」と染吉をじっと見る。
そして頷く。
梅廼家
染吉、晴れやかに帰って来て、女将や麦八や二階から降りて来た小浪、若勇に、染吉、それぞれ土産を出す。
女将には曲物に入った料理とお金。
麦八に御菓子。
小浪には長二郎のプロマイド。
若勇には半襟。
お竹にシャモジ。
皆、不審がる。
と染吉、「又、丹さんが家へ戻って来ることになったのよ」
そして、「これ、皆んな丹さんからよ」と言う。
一同、入口を気にすると、丹次郎、顎などかいて、多少テレクサイ。
然しとても朗らかに、「ヤァ」と入り来り、皆と挨拶をする。
そして二階に上る。
一同見送る。
(そしてその翌日からーー)
新聞紙が投げ入れられる。
丹次郎は二階の物干台に出て、町を見ている。
振りかえる。
女中が食膳を運んで行く。
丹次郎、朗らかに室に入る。
相不変の御馳走なしの献立である。
フト聞耳を立てると、町で納豆売りの少年が呼びながら行く。
丹次郎、買おうと思って片方を見ると、壁に貼られた底が破かれてある大入袋。
がっかりするが、茶碗の下に又金でもあるのかも知れないと望みをもって、サット茶碗を開けて見るがーー何もない。
丹次郎、朗らかな芸者家の二階にノウノウと朝の茶漬を喰う。
完
(昭和三年十二月十三日製本)