フィルム消失作品より【足に触った幸運】

小津安二郎監督作品の中から、フィルムが消失してしまい、映像を鑑賞することができない作品が17本ありますが、その中から「足に触った幸運」の脚本をご紹介します。

足に触った幸運
原作・脚色:野田高梧
監督:小津安二郎
撮影:茂原英雄
1930年(昭和五年)公開

郊外の小住宅の茶の間(朝)
足の親指にかけられた剃刃の皮砥ーー
それで研がれる安全剃刃。
研いでいるのは、シャツとズボン下だけの三十八、九の会社員古川貢太郎である。
研ぎ終ると、ちょっと切れ味を頬で当って見て、さて鏡台に向って鬚を剃り始める。
鏡台は妻君用の粗末な品で、それが部屋の縁側近くに持ち出されてある。
貢太郎、頬をふくらましたり、あごを延ばしたりして剃る。
鴨居の釘に吊された貢太郎の洋服ーー
そこへ妻君の俊子が来てその服をはずし、振り返って「まァ!」とあきれた顔をして急いで去る。
喰べ散らされた食膳の前で、六つ位の長男が、四つ位の長女の頭を殴っている。
長女は箸と茶碗を持ったままで、ワンワン泣いている。そこへ俊子が来て両者をたしなめる。長男が反抗する。
俊子、長男の頭をコツンと打つ。
長男「ワーッ」と泣き出す。と、口に這入っていた御飯が漏れる。
俊子、慌てて口をおさえる。
長男モグモグしながら泣く。
鬚を剃っていた貢太郎が振り返って、眉をひそめながら、「静かにさせろよ、朝っぱらから子供がギャンギャン泣き立てると尚更貧乏が身に沁みるじゃないか」と小言を言う。
俊子、その小言がピンと来たらしく、多少険しい眼付になって、「子供が勝手に泣くんじゃありませんか。それがおいやなら、乳母でも置けるような身分になって下さいよ」と言い返す。
貢太郎、腐って、黙って再び鬚を剃り続ける。
俊子、不愉快そうに貢太郎の方を眺め、傍の洋服を取ってポンと貢太郎の方へ投げる。
その間に泣きやんだ長男が、再び長女の頭を殴る。長女、また泣きわめく。
俊子、長男が続けて殴ろうとする手をギギュッと掴んで、恐い顔して睨み、「あんまり言うことを聞かないとお灸をすえますよ」とおどかす。
長男、必死になって手を振り放し、「ママの意地悪やい! イーだ!」とあごを突き出して庭へ逃げ降りてゆく。
貢太郎、それを見て苦笑し、鬚を剃り終って立ち上る。
俊子、長女の泣くのをなだめている。
そして、フ卜隣室の方を気にして立つ。

隣室
赤ン坊がホロ蚊帳の中で泣いている。
そこへ俊子が来て、ホロ蚊帳をどけて赤ン坊をあやす。長女が来て、俊子にまつわる。頬に飯粒がついている。

茶の間
貢太郎、洋服を着ている。着ながら、フト庭の方を見て怒鳴る。
「馬鹿! そこはパパが草花の種を蒔いた処じゃないか!」


長男が三輪車に乗って、苗床の上を駈け廻っている。

茶の間
貢太郎、小言を言い乍ら服を着終る。

隣室
赤ン坊、なかなか泣きやまない。そこへ貢太郎が折鞄を持って出て来て、「では行って来る」と言う。俊子、赤ン坊を抱いて立ち上り、貢太郎を見送って行く。
長女もついて行く。

玄関
貢太郎、俊子に見送られて出て来て、上り框に腰かけて靴をはく。
靴、かなりひどくなって、破けている。
貢太郎、はきながら苦笑して、「われわれの貧乏生活もかなり古色蒼然として来たがいつになったら浮ばれることかねえ」と冗談のように呟いて俊子を見返す。
俊子、さすがに寂しげに、しんみりと眼を伏せる。赤ン坊をあやす。
貢太郎、それを見ると、急に侘しい気持になって、つとめてその気持を隠そうとして殊更に、「アハハ……」と朗らかに笑い乍ら、赤ン坊の頭をなぜて、靴の紐を結ぶ。

舗道
力なく歩いてゆく貢太郎の下半身。
なんとなく憂鬱に考え込み乍ら歩いて行く貢太郎の上半身。
その下半身ーー歩いて行くうちに、その足先が一つの小さな長方形の風呂敷包みの落ちているのを蹴っとばす。
貢太郎、何か考えているので、無意識に風呂敷包みを蹴飛ばし続けて歩き、やがて気が付いてそれを拾い上げるーー
その辺は会社の傍なので、一帯はラッシュアワーの感じがみなぎっている。
貢太郎、不審そうに包みを眺め、開いて見る。と、中は新聞包みになっている。
それを聞くと、またその中が新聞包みになっている。
と、彼のその様子に好奇心を抱いた通行中の一人が、立ち止ってジロジロ見る。
貢太郎、それに気が付いてテレて、新聞包みを小脇に抱えこんだまま歩み去る。
立ち止った男「なァんだい」と言った顔で去って行く。
貢太郎、数歩あるいて、又立ち止って新聞包みをあげる。と、又その中が新聞包みになっている。
やや、狐にでも騙された感じで、更にその新聞包みを開けてみると、貢太郎の顔が急に驚喜の色に満ちる。新聞包みの中には十円紙幣の束が四つばかり(つまり四千円ほど)と数通の計算書のような物と印形などが這入っている。
貢太郎、胸がワクワクするような気持で紙幣を手にして、ためつすがめつし、ちょっと悪心がきざして来た様子。
と、また通行人の一人が立ち止って、貢太郎の顔と紙幣とを見比べる。
貢太郎、テレて、それ等の品を手早く纏める。
通行人、傍を去らないで貢太郎の様子を見ている。
貢太郎、フ卜、その男と顔を見合せる。
男、意味なくニッコリする。
貢太郎、気持悪くなって、急いで去る。
と、その男も、貢太郎の去る方へ歩いて行く。

物蔭
貢太郎、歩いて来て、尚も紙幣束を見たい気持で、ちょっとあたりの様子を気にし乍ら、物蔭へ曲ろうとし、振り返るとーー今の男があとから従いて来て、再び、ニッコリする。
貢太郎、益益気持が悪くなって、物蔭へ曲らずに歩いてゆく。

会社の前
貢太郎、来て止り、向いを見ると、

向うの街角
そこの交番の前に、巡査が立っているのが見える。

会社の前
貢太郎、思い切って交番へ届けようかと思うが、「ええ、ままよ」と言う気になって会社へ入って行こうとし、フト振り返ると、例の男が歩いてくる。
で、貢太郎、それが何となく刑事ででもあるかのような気味悪さを感じて、急に気を変えて交番の方へ歩いて行く。
男、貢太郎のあとから歩いて行く。

交番までの舗道
貢太郎、男の方を振り返り振り返り歩いて行く。
男、黙黙として貢太郎のあとから歩いて行く。

交番の前
貢太郎、来て拾い物を巡査に届ける。
そして巡査と一緒に交番の中へ這入って行く。
男、来て交番の前に立止って、その様子を見る。それをキッカケに通行人が次次に立ち止って交番の中を覗く。
他の巡査が現れて弥次馬を追う。
去る者もあるが、例の男だけは去ろうともしない。
やがて貢太郎が交番から出てくる。
弥次馬が散る。
貢太郎、会社の方へ戻ろうとすると、例の男とパッタリ顔を合せる。
男、ニッコリして、「あの金は拾い物だったんですか」
貢太郎「え?」と鳶に油揚げをさらわれたような気持になる。
男「アハハ……」と笑って去って行く。
貢太郎、馬鹿にされたような気持で見送り、腐って苦笑を浮べながら、がっかりした姿で会社の方へ戻って行く。

会社の時計
十一時半を過ぎている。

貢太郎の机上の帳簿立て
数冊の帳簿が並んでいる処へ、更に一冊の帳簿が立てられ、別の一冊が抜き出される。

机上
帳簿が関かれて、貢太郎の手が忙しげに算盤をはじく。

会社の事務室
算盤をはじいている貢太郎、やがて帳簿に数字を記入する。
と、又、その帳簿を帳簿立てに収めて他の一冊を抜き出して算盤をはじき、せっせと仕事を続ける。
彼の右隣は老眼鏡をかけた吉村老人の席で、これも黙黙として仕事を続けているが、やがて大きなアクビが出るのを手で抑えて噛み殺す。
と、そのアクビが貢太郎に伝染する。
と又、そのアクビが貢太郎の左隣の若い社員山野に伝染し、それが更に次の社員から次の社員へと伝染し、タイピストもアクビをすれば、厳格な顔をして書類を点検している課長もアクビをする。
課長、再びアクビをしながら、書類に判を押して大井に渡す。大井もまたアクビが出るのを噛み殺しながら、書類を受取って自席へ戻って行く。
大井の席は貢太郎と背中合せになっている。大井、自席に戻ると、書類を机上に投げ出して給仕を呼ぶ。
給仕溜りで戯れていた三、四人の給仕の中の一人が、大井の方へ行く。
大井、椅子にもたれて煙草を吸い乍ら、そこへ来た給仕に、「紅葉軒に鰻丼を頼んでくれ」と言う。給仕、承知して去ろうとすると、山野が呼び止めて、「おれはキング亭のハムライスとメンチボールだ」と、命じる。
給仕、承知して去りかけ、貢太郎に、「古川さんは、いつもの様にうどんかけですか」と訊ねる。
貢太郎、微苦笑を浮べて頷く。
給仕、更に吉村老人に向って、「吉村さんは弁当をお持ちになっているんですね」と訊ねる。
吉村老人、ニッコリして頷き、机上に置かれた弁当の風呂敷包みを叩いて見せる。
給仕、去る。
吉村老人、一ト休みという感じで、キセルを出してキザミを詰めながら、貢太郎に言葉をかける。
貢太郎、ペンを置いて、これも一卜休みという感じで吉村老人の方を見る。
吉村老人、ニコニコしながら、「若い連中は昼の弁当にも鰻丼だ洋食だと何かにつけて元気がいいですな」
貢太郎、仕方なく苦笑して頷く。
吉村老人、頬をすぼめるようにして、キセルで煙草を吸い乍ら、「われわれのように大勢の家族を抱えて日夜あくせくとしている者にはとてもそんな元気は出ませんわい」と言って、「ハハハ……」と笑う。
貢太郎、微笑するが、何となく侘しい気持になる。そこへ給仕が一枚の名刺を持って来て、貢太郎に「御面会です」と渡す。
貢太郎、名刺を受取ってみる。
名刺ーー『金融業 前牛込区会議員 久保井 忠五郎』
貢太郎、不審そうに首を傾ける。給仕「あちらでお待ちになっています」と促す。貢太郎、首を傾け乍ら立ち上がる。

応接所
応接所とは名ばかりで、実は事務室の一部を衝立で仕切って、テーブルと椅子を並べただけの所ーーそこの椅子に久保井が腰かけて待っている。
貢太郎、久保井の名刺を持って這入って来て、「久保井さんと仰有るのは?」と訊ねる。
久保井、立ち上がって挨拶する。貢太郎は初対面なので不審そうに挨拶を返す。
久保井は言う。
「実は、今朝あなたが、お拾い下すった物に就いてお礼に参上した次第なのです」
貢太郎「ああ、そうでしたか」と初めて合点する。
久保井、言う。
「たかが四、五千の金ですから無いと思えばそれまでですが店の者に落されたのではどうも無意味でしてな」
貢太郎「御尤もです」と頷く。

衝立の外
山野が通りかかって、フト応接所内の話に耳を傾け、好奇心をそそられて立ち聞きする。

応接所
久保井、水引をかけた金包みを出してそれを手に持ったまま、言う。
「ところで、法定の謝礼金は一割ということになっていますから四千円として四百円のお礼を差し上げることになります」
貢太郎「いやどうも」と言い乍らも喜びを包みきれず、しきりに手を揉む。
久保井、金包みを貢太郎の前へ出し乍ら言う。
「ところで当今は、ご承知の通りの不景気ですから特に百円だけ節約させて頂いて、三百円是非お受取りを願います」
貢太郎、瞬間、変な顔をするが、すぐニッコリして金包みを受取ろうとし、気が付いて、「いやこんな御心配には及びません」と押し返す。
久保井「いや是非お受取り下さい」と押しやる。
貢太郎「では頂きます」と受取る。

衝立の外(短かく)
山野「素晴らしいニュースだ」という様子で自席の方へ戻って行く。

山野の席の一帯
山野の机には注文の洋食、貢太郎の机上にはうどんかけが来ている。山野、戻って来て大井に「おい古川さんが素晴らしい金儲けをしたぜ」と語る。吉村老人も振り返って「なんですか?」と訊ねる。
山野、両人を相手にニュースを報告する。吉村老人しきりに感嘆して聞いている。そこへ大井の注文の鰻丼が来る。

衝立の外
貢太郎、金包みを手に持って、久保井を送り出す。
事務室の出口のドアまで久保井を見送って丁寧に別れを告げる。久保井、帰って行く。
貢太郎、フト、手にした金包みに眼を移し、それを撫でながらニッコリして、再び急ぎ足に応接所の中へ這入って行く。

応接所
貢太郎、這入って来るとすぐ、四辺に気を配りながら金包みをあけて、中の紙幣を勘定する。
十円紙幣で三十枚。
貢太郎、ひとりでニッコリし、舌なめずりをする。
紙幣を包み紙にしまう。

衝立の外
貢太郎、つとめて平然たる態度で応接所から出て来て、自席の方へ戻って行く。

貢太郎の席の一帯
大井や山野や吉村老人が、それぞれ昼の弁当を喰べ乍ら、貢太郎の噂をしている様子で、殊に吉村老人は大きなアルミの弁当箱から目刺しか何かをつまんで喰べ乍ら、感嘆して話をしている。
そこへ貢太郎が戻って来る。一同、急に口をつぐんでしまう。
貢太郎、自席に着くと、黙ってうどんかけを喰べ始める。
吉村老人、弁当を喰べながら、時時チラリチラリと貢太郎の方を見る。
貢太郎、黙って喰べている。
吉村老人、ニヤニヤして、「この不景気に、三百円の臨時収入とはあなたも運が好いですな」と言う。
貢太郎、一瞬、「えッ?」と意外そうに吉村老人を見るが、すぐ「いやどうも」と恐縮した顔でうどんを喰べる。
吉村老人、ニコニコしながら、「わしは若い頃に、骨相学を研究したことがありますが、あなたの鼻の形には富貴栄達の相があると、かねがね思っていましたよ」と褒める。
貢太郎「いやどうも」と微苦笑する。
吉村老人、貢太郎の鼻を指さして、「つまりこんな形の鼻ですなァ」と指で空に鼻の画を描いて説明する。
貢太郎、思わず自分の鼻を撫でて見る。
吉村老人「ハハハ……」と笑い乍ら、一ト膝乗り出すような感じで、急に真面目な顔になって、「ところで、甚だ恐縮ですが十円の復興債券を二枚、買って頂けんでしょうか」
貢太郎、思わず「えっ?」と吉村老人を見る。
大井と山野も思わず吉村老人の方を見て、互いに眼を見合わせ、「達者な爺さんだな」と言ったように頷き合う。
吉村老人、内ポケットからふくさ包みの復興債券を出しながら、しんみりした様子で、「お話すれば愚痴になりますが、家内が臨月で近い中に、十一人目の子供を生みますのでな」と言う。
貢太郎「十一人目の?」と眼をみはる。
吉村老人、債券を示しながら、力なく、「実は課長に事情を打ち明けてこれをカタに融通して貰うつもりでいたのですが……」と言って、貢太郎に頼む。
貢太郎、じっと考えている。
吉村老人、哀れっぽい態度で、しきりに頼む。
貢太郎、気の毒になって「よろしい」と頷き、「私の方も焼け石に水ですが困る時はお互い様ですから兎に角、二十円だけ御融通しましょう」
吉村老人「えっ、聞き届けて下さるか」と喜んでペコペコお辞儀する。
山野と大井、それを見て、ひそかに感嘆する。
貢太郎、例の金包みから十円紙幣を二枚出して、吉村老人に渡す。
吉村老人、それを押し戴いて、債券を貢太郎に差し出し、「ではどうぞ」と言う。
貢太郎、笑ってそれを遮り、「あなたと私の間で、取引をするのも変ですからその金は無償で御融通しますよ四、五円宛の月賦でも、お返し下されば結構です」と言う。
吉村老人、喜んで、「では、カタとして、お預り願いましょう」と債券を差し出す。
貢太郎「いや構いませんよ」と笑って受取らない。吉村老人、益益感謝に溢れて、「では勝手ですが」と債券をふくさに包んで内ポケットに入れ、「借用証を書きましょう」と机に向い、会社の罫紙に借用証を書き始める。
吉村老人、借の字を忘れ、惜と書いたり措と書いたりする。
貢太郎、それに構わず、喰べかけのうどんをスルスルと喰べる。
(で、早速その日の帰りにはーー)

靴屋のショウウインドウ
銀座の靴屋である。キャメラを旋回して店の入口の方へ向けるーーと店内から、三、四個の買物包み(妻君への土産なども買った心持)を持った貢太郎が出て来る。

靴屋の店前
貢太郎、出て来ながら、フト入口の台の上に並べられた子供の靴を見、手にとって眺める。
店内から番頭が出て来て、何かお世辞を言う。
貢太郎、長男と長女の靴を買う。
番頭、それを持って奥へ入る。
貢太郎、店の前に立って待っている。
フト、一方を見て「ヤア」と会釈する。
大井と山野が会釈しながら近付いて来る。両人、貢太郎を囲んでニコニコしながら、先ず山野が言う。
「時ならぬ時に、大した景気ですね」
貢太郎「いやとんでもない」と恐縮して笑う。
そこへ店内から靴の包みを持ってくる。
そこで三人、一緒に並んで歩き出す。
大井、歩き乍ら貢太郎の買物包みを見て「少し持ってあげましょう」と手を出し、貢太郎が遠慮するのを無理に受け取って持ってやる。と、山野も同じ様に、横から手を出して包みを持ってやる。
で、三人、並んで歩き乍ら、大井が微笑を浮べて貢太郎に言う。
「時に、どうです? 吉村老人の所謂鼻の好運にわれわれもあやからせてくれませんか?」
貢太郎、苦笑して、「ハハ……、とても駄目ですよ」と、首を振る。
大井、山野に「なァおい、どうだい」と相談する。
山野、頷いて賛成し、微笑を浮べ乍ら貢太郎に言う。
「すぐこの裏通りに、粋なバーがあるんですがちょっとどうです? 寄って見ませんか?」
貢太郎「いや僕なんか、とてもバーなぞへは」と言っている間に街角へ来る。
山野と大井「すぐ其処ですよ」と街角に立ち止ってすすめる。
で、貢太郎も仕方なく「ではちょっとだけ」と言うことになって、街角を曲って三人並んで歩いて行く。

バーの中
素晴らしくハイカラなバーで、出来るならボスも外国人でありたい。二、三人の女給がいるが、いずれも断髪洋装で、来ている客もシークボーイが大部分を占めている。その描写適当にーー
やがて山野を先頭に、貢太郎と大井が這入って来る。山野や大井は既に馴染らしく女給に迎えられる。
貢太郎、いささか圧倒された形で、ボンヤリ室内を見廻している。それを山野や大井が「さァどうぞ」と促して席に着かせる。女給、貢太郎の持っている包みや帽子などを嬌笑を浮べながら受取る。
貢太郎、益益面喰らった形で、多少、オロオロし乍ら席に着く。
山野、女給に何か注文する。貢太郎、山野に注文をまかせて、なんとなくソワソワし乍ら四辺を見廻しなどしている。山野も大井も、まるで我が家へでも帰ったように落着いて悠悠としている。殊に山野は女給に注文を通すと、スタンドの処へ立って行って、ボスと何か話をして「アハハハ」と愉快そうに笑いなどしている。貢太郎、大井に言う。
「君達は、こんなバーなどには、随分お馴染が多いんでしょうな?」
大井「ハハハ」と笑って、「そうでもありませんよ」などと言う。
そこへ女給がドイツビールを持って来て、コップを並べなどする。
大井、それを見ながら貢太郎に向って微笑を浮べて言う。
「古川さんは、日本趣味なんですか?」
貢太郎「いやとんでもない」と苦笑して、首を振る。
大井笑って、「それならそれで、おつきあいの方法もあったんですよ」などと言う。
女給、ビールを注ぎ終る。そして山野を呼ぶ。山野、戻ってくる。
で、「古川さんの鼻のために!」ということになって、三人がポロジッ卜をする。

貫太郎の家の庭先(同じ夕刻)
縁側に近い庭先に、タライを持ち出して、俊子が長男と長女に行水を使わせている。
俊子が長女をシャボンだらけにして洗ってやっている間、長男は水鉄砲をチュウチュウ飛ばして遊んでいる。そして、長女にチュウとかける。
長女、おこる。長男、尚やる。俊子、長男を叱って水鉄砲を取り上げようとすると、長男がタライの中から飛び出して庭を逃げ廻る。俊子、捕えようとして追う。長女、それを見て立っているが、やがて縁側にある天瓜粉を取って、濡れた顔へ一面に化粧を始める。俊子、漸く長男を捕える。水鉄砲をもぎ取り、手を引張ってタライの処へ連れて来る。
と、長女が右の有様なので、天瓜粉を取り上げて叱る。
そして、長男と長女の手を掴んで、両方の顔を睨み乍ら、「そんな悪戯ばかりすると、パパに言いつけてお灸をすえますよ」とおどす。

玄関(短かく)
格子が開いて、ベルが鳴る。

庭先
俊子、それを耳にして、「そら、パパのお帰りよ」と言って、縁側へ上ってゆく。

玄関
背広を着た事務員風の男が立っている。
そこへ俊子が来て、ガラリと障子を開け、貢太郎でなかったので多少慌てた形で、丁寧に挨拶する。
事務員風の男、会釈して、「ミシン会社でございますがミシンをお求め下さいませんでしょうか」と言って印刷物を出す。
俊子、断わる。男、しきりに勧める。
俊子、重ねて断わる。男、印刷物だけ置いて帰って行く。
と、そこへビショ濡れの長女が、同じくビショ濡れの長男に追われて逃げて来る。そして、俊子が制する暇もなく俊子を中心にして追いつ追われつ、グルグル駈け廻る。

夜 粋な手洗鉢
その手洗鉢の上にはシャレた釣燈籠などが吊してある。ーー手が出て、ヒシャクを取って手を洗う。

或る待合の縁側
手を洗っているのは貢太郎で、かなり酔っていて、時時グイッとオクビが出る様子である。手を洗って振り返ると、そこに立って待っていたお酌が手拭を渡す。
貢太郎「やァありがとう」とニッコリし乍ら手を拭いて、「さァ行こう」とヨロヨロし乍ら、お酌に支えられるようにして歩いて行く。

一室
大井と山野が三、四人の芸者やお酌を相手にして陽気に騒いでいる。
そこへ貢太郎がお酌と一緒に戻って来る。そして自分の席に着くと、大井の耳に囁く。
「そろそろ、引上げましょうか」
大井、酔っぱらった様子で、「まだこんな時間じゃありませんか」と腕時計を見せなどして、すぐ芸者の方を向き直って何か陽気にふざける。
貢太郎、酔ってはいるものの、気になる様子で考え込みそうになる。
と、傍の若い芸者が「さァおあけなさいな」と酌をする。
貢太郎、酌を受けて飲み、また考え込みそうになって、今度は山野に囁く。
「あんまりおそくなると明日に差支えやしませんか」
山野「大丈夫大丈夫」と酔っぱらった調子で手を振って相手にせず、すぐ芸者達の方を向いて、手を叩き乍ら、「何をクヨクヨ川端やなァぎ コガルル ナントショ」と唄い出す。
貢太郎、侘しくなって、しんみりと盃を舐める。
大井、元気よく「さァ一っ」と貢太郎に盃をさして、「あなたの鼻を信頼して今夜は大いに元気に陽気に、愉快に尖端的に騒ごうじゃありませんか」と叫ぶ。山野も「そうだそうだ」と賛成して貢太郎に盃をさす。
貢太郎、両手に盃を受けて、寂しい顔をしながら、眼をつぶって飲む。

貢太郎の家の茶の間(同夜)
奥の部屋には蚊帳が吊ってある。茶の間では俊子が一人ポツネンとして針仕事をしている。時計を見る。
時計ーー十一時半を過ぎている。
俊子、不機嫌な顔で、再び針を運ぶ。

貢太郎の家の表
自動車が来て止まる。
泥酔した貢太郎が買物包みを持って降りるが、ヨロヨロして包みを二つ三つ落す。
しかし構わず家の方へ歩いて行く。
運転手が包みを拾って持って行く。

玄関
貢太郎、入って来て「帰ったぞ」と怒鳴りながら上り框にゴロリと横になってしまう。
俊子が出て来て「まァ」とあきれる。
運転手が包みを俊子に渡して「どうも有難う存じました」と礼を言って格子をしめて去る。
俊子、貢太郎を揺り起す。
貢太郎、起き返って、「アハ……どうだい」と言い乍ら靴のまま、部屋へ上ろうとする。俊子、それを遮って靴を脱がせてやる。その間に貢太郎、そこに置かれた包みの一つを開こうとするが手がすべって駄目である。
俊子、靴を脱がせると「さァ」と促して貢太郎を肩で支える様にして茶の間へ連れて行く。
貢太郎、包みを気にするが、俊子はそんな事に構わず連れて行く。

茶の間
俊子、貢太郎を連れて来て坐らせる。
貢太郎、崩れるようにグッタリと首を下げて坐る。
俊子、それを苦苦し気に見て、不機嫌に、「一体どうしたって言うんです 何処でそんなに、飲んで来たんです?」
貢太郎、顔を上げて「アハン」と笑い、「そんなに怒り給うなよ お前にも、お土産を、買って来たんだ。」と言って、包みを取りにヨロヨロと立とうとする。
俊子、不機嫌に、「あなたはじっとしていらっしゃい」と叱って、自分が立って行って買物包みを持って来る。
貢太郎「ああ、それだそれだ」と反物らしい包みを取ろうとする。
俊子、その手をピシャリと叩いて払いのけ、鋭く言う。
「好い加減になさいなね あなたは子供が、三人もあるんですよ」
貢太郎、叩かれて手をさすり乍ら、多少恐縮するが、すぐ「アハハ」と笑ってゴロリと仰向けに転がり、手を叩き乍ら唄い出す。
「何をクヨクヨ川端やなァぎ コガルルナントショだーー」
俊子「あなた!」と叱る。
貢太郎「ハハハ」と笑って、そのまま眼を閉じて眠ってしまう。
俊子、それをじっと見、眼を移して反物の包みを見、ニガイ顔をして手に把る。
貢太郎、鼾をかいて寝こむ。
俊子、包みを開けてみると、似合いの反物なので、「まァ」とニッコリして袖にあてがってみる、そして、フト眼を移して貢太郎の寝姿を見ると、再び不愉快な顔になって、じって見る。
好い気持そうに寝込んでいる貢太郎。

朝 台所
お釜が吹いている。手が出て瓦斯の火を消す。
割烹着を着た俊子、読みかけの新聞を膝の上に置いて流し元の上り框に腰掛けたままで瓦斯を消すと、また新聞に眼を移す。
そして社会面を一ト通り見て行く中に不意に何かの記事を発見して「おや?」と言った様子で、一心に読み、急にソワソワとして、一大事でも書いてあったらしく立ち上がって急いで奥へ這入ってゆく。

奥の部屋
蚊帳の中ーー長男と長女と赤ン坊が、縦横に寝転って熟睡している一方で、貢太郎が昨夜上着を脱いだままの姿でズボンをはいて眠っている。
俊子が新聞を持って蚊帳の中に這入って来て、貢太郎を揺り起す。
貢太郎「ううーん」と眼を覚まして、まぶしそうな顔をする。
俊子、新聞を突きつけるようにして、「あなたは昨日、お金を拾って、四百円、お礼をお貰いになったんですか?」と慌ただしく訊ねる。
貢太郎、頷いて俊子を見る。
俊子「まァ嬉しい」とソワソワして新聞を見せる。
貢太郎、手にとって見る。
新聞記事ーー「拾ったお礼が四百円」というような見出しで、貢太郎の事が出ている。
俊子「よかったわね、よかったわね」と繰り返す。
貢太郎、ニコニコして、「しかし、事実は三百円しかくれなかったんだよ」と言って事情を話す。俊子、眉をひそめて話を聞くが、すぐ諦めて、「でもよかったわ」と頷いて、「そのお金どこにあるの」と訊ねる。
貢太郎「上着のポケットだ」と答える。
俊子、蚊帳から出てゆく。貢太郎も出る。

茶の間
俊子、鴨居にかけてある上着のポケットを探る。
待合の勘定書が出て来る。五十幾円ぐらいの額になっている。
俊子の眉がピリピリと動く。そして、貢太郎の方を振り返る。
貢太郎、庭の方を向いて、煙草をふかしている。
俊子、勘定書を帯の間にしまい、内ポケットを探って例の金包みを出す。そして調べてみる。百七、八十円しかない。
俊子、機嫌が悪くなるが、つとめて平気な顔をして貢太郎の傍へ行き、とぽけて、「たった百八十円しかありませんよ どうしたんでしょうね」と、不審そうな顔をする。
貢太郎、気安く頷いて答える。
「吉村さんに、二十円貸したし 買物も相当にあったからね」
俊子、キリッとして、「何をお買いになったの? 芸者?」と、鋭く突込む。
貢太郎、ドギマギするが、わざと平気な顔をして「アハハ」と笑い、「馬鹿を言え。この年になって芸者なんか買うかい」と言ってのける。
俊子、屹となって、帯の間から勘定書を出して、「これは何です!」と突きつける。
貢太郎「アッ」と思わず手を出す。
俊子、素早く手を引っこめる。
貢太郎、マが持てなくなってモジモジする。
俊子「あなた!」と涙ぐんで睨む。
貢太郎、「実はその……」と弁解しようとする。
俊子「いいえ知りません」と首を振って、「三百円しかくれなかったなんて体裁のいいことをおっしゃるのは止して下さい」と鋭く言う。
貢太郎「そりゃ違うよ。そりゃお前の邪推だよ」と一生懸命に弁解する。
俊子「いいえいいえ」と首を振って、「あなたにお金持たせたら何をなさるか知れたものじゃありません」と言って、そこに置いた例の紙幣を取ろうとする。貢太郎、思わず手を出す。俊子、その手を強く払いのけて、紙幣を取ってしまう。
貢太郎、腐って、フ卜蚊帳の方を見る。
蚊帳から、長男と長女とが首を出して両親の形勢を観望している。
貢太郎、グッと睨む。
長男と長女、顔を見合せて、ニヤリとし、蚊帳の中へ首を引っ込める。

同朝 会社の事務室
入口のドアが開いて課長が出勤してくる。給仕が出迎えて帽子を受取る。
室内はもうみんな出勤している。課長、その社員達の席の間を通って行く。
中には殊更に立ち上がって、追従的にお辞儀をして迎える者などもある。
大井も山野も貢太郎も出勤しているが、吉村老人だけが欠勤している。
貢太郎、課長が通りすぎるのを見て会釈する。
課長、会釈を返して立ち止り、「時に……」と口を開く。貢太郎、立ち上がって「ハイ」と答える。
課長、ニコニコして、「今朝の新聞で見たが、君はなかなか巧い儲けをしたね」
貢太郎、頭を掻いて恐縮する。
課長「いや結構結構」と合点して、「あとでちょっと、君に相談があるんだが 僕の席まで、来てくれ給え」と言い置いて去って行く。
他の事務員たち、ヒソヒソと囁く。貢太郎、不吉な予感がして、クビだと思い、悄然とする。
山野、貢太郎に自分の頭を叩いて見せ、「いささか二日酔の気味で今日は、つらいですよ」と言って、微笑する。大井も振り返って「おれもだ」と頭をおさえて見せる。
貢太郎、苦笑する。そして立ち上る。

同室内 課長の席
課長、上衣を脱いでボンヤリ扇子を使っている。
そこへ貢太郎が来て「何か御用でしょうか」と改まって聞く。
課長、愛想よく傍の椅子を示して「まあ掛け給え」とすすめる。
貢太郎、恐縮して立っている。課長、強いて「まァ兎も角も掛け給えよ」とすこぶる愛想よくすすめる。
貢太郎、モジモジして椅子に腰を下す。
課長、打ちくつろいだ様子で、扇子をパタパタやり乍ら、「時に君は、養鶏をやって見る気はないかね?」と訊ねる。貢太郎、不審そうに「養鶏と言いますと?」と反問する。
課長「つまり鶏を飼うのさ」と言って指を出して、金勘定のゼスチュアをしながら、「養鶏という奴は、百円の資本をおろせば月々二百円から三百円の収入があって極めて、確実な、利殖の方法なんだがね」
貢太郎「なるほど」と頷く。
課長、膝を乗り出して、「卵は卵屋へ卸す 産卵期の過ぎた鶏は、肉として売れるし 一方では、ふ卵器で、卵をかえしてヒヨコにする 実に君、その利益たるや莫大だよ」と雄弁に説明する。
貢太郎「なるほど、なるほど」と気が乗ってくる。
課長、更に一ト膝乗り出して、「ところで、君がやる気があるなら僕の処の鶏を、安く譲ってあげる」と言う。
貢太郎「どうぞ、是非」と頷く。
課長、安心したらしく、悠々と椅子にもたれて扇子を使いながら、「牝鶏が三十羽に、雄鶏が二羽 それに、ふ卵器を一個添えて百円なら、安いもんだよ」と言う。
貢太郎「全くです。全くです」と嬉しそうに頷いて、「どうぞ、是非、御願い致します」と頼む。課長「ああ、いいとも」と頷く。貢太郎、尚も宜しく頼んで「では御免下さい」とお辞儀をして去って行く。

貢太郎の席の一帯
山野も大井も頭痛がするらしく、時時トントンと頭を叩きなどして仕事をしている。
そこへ貢太郎が独り微笑を浮べながら戻ってくる。
そして何か指を折って数え乍ら、ひとりで「フフフ」と嬉しそうに微笑を洩らす。鼻をチラシでかむ。山野、それを見て「古川さん」と呼び、「また何か、鼻の功徳が、現われたんですか」と羨ましそうに訊ねる。
貢太郎「いやいや」と首を振って、じっと何事かを空想し、指で鼻を撫でて見る。

貢太郎の家の前(夕方)
長男と長女が遊んでいる。フト、一方を見て「パパ!」と駈け寄って行く。
貢太郎が会社から戻って来る。子供達がすがりつく。貢太郎、子供達の頭を撫でながら、元気よく家へ這入って行く。

玄関
俊子が出迎える。貢太郎、靴をぬいで子供達と一緒に上る。

茶の間
貢太郎、俊子に手伝わせて服を脱ぎながら、すこぶる上機嫌で、指のゼスチュアを交えながら、「たった百円の資本で、月々二百円から三百円も儲かる仕事を契約して来たぜ」と言う。
俊子「えっ?」と当惑した顔で貢太郎を見る。
貢太郎、説明しようとする。
俊子、言う。
「もう、あのお金は、ありませんよ」
貢太郎「えッ!」と眼を丸くする。
俊子、反動的に冷静になって、「百六十円で、ミシンを買って、残りの二十円であなたの着物を買ったんです」と言って、奥の部屋を指さす。

奥の部屋(見た眼)
ミシンが置いてある。

茶の間
貢太郎、ムラムラして、いきなり怒鳴りつける。
「馬鹿! なんだってあんな余計な物を買ったんだ!」
俊子、屹となって、反抗的に、「あなただって芸者を買ったじゃありませんか! ミシンを買うのが、何が馬鹿です!」と言い返す。
子供達、両親の殺気にキョトンとして形勢を見ている。
貢太郎、腹立たしそうに、イライラして来る。
俊子、益益反抗的に、「ミシンなら、内職だって何だって出来ます! 芸者では、内職は出来ません!」と一本やりこめる。
貢太郎「馬鹿!」と一喝して、いきなり俊子の頬をピシャリと殴る。
俊子「アッ!」と頬をおさえて、屹と貢太郎を見返す。
貢太郎、睨みつけて喘いでいる。
長男が貢太郎を止めて、「パパ! みっともないからママと喧嘩するのはおよしよ!」と言う。長女も貢太郎をとめる。
貢太郎、いささかテレて、子供達に、「お前達は向うの部屋へ行っといで」と奥の部屋へ押しやる。
子供達、奥の部屋へ行く。
貢太郎と俊子、それで互いにマが持てなくなる。
俊子、涙ぐんで、黙って洋服の上着を釘にかける。
貢太郎も黙黙としてズボンを脱ぎ、靴下を脱ぐ。
俊子、涙を拭き乍ら、黙ってズボンを釘にかけ、靴下を片付ける。
貢太郎、シャツとズボン下のままでアグラをかいて、意味なく、頭をゴシゴシ掻きなどする。

奥の部屋
寝かされていた赤ン坊が、突然、火のついたように泣き出す。

茶の間
俊子、いそいで奥の部屋へ行く。

奥の部屋
赤ン坊の傍で、長男と長女が手に蚊取線香を持って、赤ン坊をおさえつけている。そこへ俊子が来て、「どうしたの?」と訊く。
長女が得意そうになって答える。
「赤ちゃんが、蒲団から転がり出していくら直してやっても、すぐ又転がり出してしまうのよ」と、長男が得意になって、線香を見せながら、「だから、僕が、お灸を据えてやったんだよ」と言う。
俊子、驚いて赤ン坊を抱き上げて、その腕を見、「おお可哀そうに可哀そうに」と言って、茶の間を振り返って慌ただしく言う。
「あなた、早く、メンソラを持って来て下さい!」

茶の間
腐っていた貢太郎、それを機会に「おい来た」と立ち上って、箪笥の上の小さな籠からメンソラを出して、奥の部屋へ持ってゆく。

玄関
吉村老人が、ビールを半ダース持って這入って来て、案内を乞う。

奥の部屋
貢太郎、俊子が抱いた赤ン坊の腕に、メンソラを塗っている。
そして、玄関の声を耳にして出て行く。

玄関
吉村老人が待っている。
そこへ貢太郎が浴衣を引っかけて帯を巻きながら出て来て、「よう、これはこれは」と言って、「さァどうぞ」と招じ上げようとする。
吉村老人「いや今日は此処で」と言って上らず、「お蔭で、今朝無事、男の子が生れましたので ちょっとお礼に参上した次第です」と言ってビールを「つまらぬ物ですが」と差出す。長男と長女が出て来る。
貢太郎、吉村老人に「こんな御心配には及びませんのに」と恐縮する。
吉村老人「いやいやどうぞお納め下さい」と言って、ニコニコし乍ら、「あなたから二十円拝借したのが縁になって あなたの鼻の瑞相が、何うやら私にまで響いて来たようですよ」と言う。貢太郎「いや、それは結構です」と相槌を打つ。
吉村老人、ニコニコして言う。
「実はあの債券の一枚が、千円に当りましてな」
貢太郎「え? あれが千円に?」と眼をみはる。
吉村老人「ハハ……」と笑って、「就いては、昨日の二十円と利子として十円……」と言い乍らがま口から十円紙幣を三枚出して貢太郎の前に置く。
貢太郎、がっかりして、ボンヤリ項垂れる。
吉村老人「では御免下さい」と会釈して去りかける。
貢太郎、気が付いて、十円紙幣を一枚取って「これはお持ち帰りを」と言う。
吉村老人「いやいや」と手を振って、逃げるように帰ってゆく。
貢太郎、じっと見送り、鼻をさする。グッタリしてビールと紙幣を持って奥へ行く。

奥の部屋
俊子が赤ン坊をあやしている。
貢太郎がビールと紙幣を持って這入って来る。子供達も従いてくる。
貢太郎、力なく俊子に、「吉村さんが、昨日の金に十円の利子をつけて返してくれたよ」と言って紙幣を渡す。
俊子、紙幣を受取って、その三枚をじっと眺め、しんみりした感じで貢太郎を見、なんとなく涙ぐましく、「あなたに黙ってあのお金を使ってしまって済まなかったわね」と言う。
貢太郎、黙ってカなく首を振る。そして顔を上げて俊子を見る。涙ぐんで、「そのうちに、又いい事があるだろうさ」
俊子も涙ぐんで貢太郎と眼を見合せる。
子供達、それを見ている間に、次第に泣き出しそうな顔になって来る。
貢太郎と俊子、涙ぐんだままで次第に項垂れる。
子供達、途端に声を揃えて「ワー」と泣き出す。

翌朝 郊外の路上
朝らしい。通行人が通る。やがて貢太郎が折鞄をぶら下げて、カなく項垂れながら歩いて来る。
そして、又、路上に新聞に包んだ物が落ちているのを発見する。
貢太郎「おや?」と眼をみはって拾おうとし、四辺に気を配る。
通行人がある。
貢太郎、わざと平常を装って包みを足の蔭にかくすようにして、人でも待っているような顔をして立っている。
通行人が去る。
貢太郎、いそいで包みを拾って開いて見る。
今度もまた、幾枚かの新聞に包んである。
そして最後に現われた物は、腐った御飯である。
貢太郎「チェッ!」と舌打ちをして投げ捨て、足で蹴っ飛ばし、気を変えて、サッサッと勢よく歩いてゆく。
遠くなって行くその後姿。

(昭和五年八月一日)

動画について

①ブルー・インパルス ②オーバー・ザ・ギャラクシー ③オンリー・ワン・アース ④輝く銀嶺 ⑤東京物語(吹奏楽アレンジ) ⑥彼岸花(吹奏楽アレンジ) ⑦秋刀魚の味(吹奏楽アレンジ)

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