一人息子
葉山正雄 飯田蝶子
一人息子は、小津安二郎第36作目の監督作品である。
1936年(昭和11年)に公開され、小津自身は33歳であった。
晩年、「自作を語る」の中では、次のように述べていた。
「はじめてのトーキーです。
前に書いてあった脚本「東京よいとこ」
- これは少し撮りかけたのですが、どうして止めたんだっけな -
を、トーキー用に書き直した。
記録では大船作品になってるでしょう。
実は蒲田で撮ったんです。
撮影所は皆大船へ移ってしまっていたんだが、ほら、これは例の茂原式トーキーだからね、
大船は使えないんだ。
それで誰もいなくなった蒲田の空スタジオを使ってやった。
電車の音がうるさくてね、昼間は撮れない。
夜中の十二時から明方の五時まで、毎晩五カット位ずつ撮って行った。
たのしい撮影でしたよ。
骨の髄からのサイレント的なものが除けなくてね、まごついたよ。
サイレントとトーキーではすべての事柄が違うんだってことは判っていながら、結局サイレント的になってしまうんだね。
大いにまごついて、他人より四、五年あとになって、こりゃ俺も一寸立遅れたかな、とさえ思った。
今になってみれば、却ってサイレントをとことんまでやっていたことがためになっているのだがね。」
(引用:「自作を語る」)
■ストーリー
1923年の信州、野々宮つねは一人息子の良助と暮らしていた。良助は学校の成績が良く、担任の大久保からの助言もあり、上の学校へ進学することになった。学費のめどが立たないつねだったが、良助の立身出世だけを願って、わが身を顧みず必死に紡績工場で働いた。
まもなく、大久保は教師を辞め、東京での成功を夢見て去って行った。それから12年の歳月が流れ、東京で暮らしている良助を、つねは久しぶりに訪ねてみることにした。東京で成功しているはずの息子は、みすぼらしい家に住み、安い賃金で夜学教師の職に就いていた。しかも、結婚して子供までいることを初めて知らされた。
翌日、良助はつねを連れて、近所でとんかつ屋を営む大久保先生の家を訪ねた。かつては、希望に燃えていた大久保だったが、今では妻子を抱えて暮らしていくだけで精一杯の様子だった。良助も挫折を経験し、人生に希望を持てなくなっていた。
女手ひとつで苦労して育てた息子の不甲斐ない姿に、つねは厳しく叱責した。良助の妻杉子は、自分の着物を売って作った金を良助に渡し、つねをどこかに連れて行ってあげたらと言った。そこへ、近所で暮らす未亡人おたかの息子富坊が、馬に蹴られて大怪我を負ったという知らせが入る。貧しいおたかには治療費を払う余裕などなかった。
良助は、母親のために使うつもりだった金をそっとおたかに渡した。そんな息子の姿を見たつねは、「たとえ金持ちでなくてもいい、いつでも困っている人を助けたいという気持ちこそが大切なのだ。」と言って良助の行動を讃えた。息子のやさしさに触れ満足したつねは、東京を後にし信州へと帰って行った。
つねは工場で働く日々に戻ったが、同僚から東京での様子を尋ねられた。つねは、つい息子の自慢話を口走ってしまったが、一人になると肩を落としてため息をつくのだった。
飯田蝶子・・・野々宮つね
日守新一・・・野々宮良助
葉山正雄・・・その少年時代
坪内美子・・・良助の妻杉子
吉川満子・・・おたか
笠智衆・・・大久保先生
浪花友子・・・その妻
爆弾小僧・・・その子
突貫小僧・・・富坊
高松栄子・・・女工
加藤清一・・・近所の子
小島和子・・・君子
青野清・・・松村老人