小津安二郎と信時潔の接点 その1

信時潔(1887年-1965年)は、同世代の山田耕筰と共に、20世紀の日本音楽界を代表する偉大な作曲家でした。戦時中、準国歌と言われた軍歌「海行かば」の作曲者としても有名な人物です。
※信時潔の功績については、信時裕子さん(信時潔の孫)が運営しているサイト、信時潔研究ガイド(信時潔に関する研究情報ページ)をご覧ください。

これまでに、小津安二郎と信時潔の接点について言及している記事は、あまり目にした記憶がありません。確かに、直接的な繋がりはなかったと思いますが、間接的にはいくつかの接点を挙げることができます。

先日、たまたま当サイトをご覧になった信時裕子さんから、斎藤高順直筆の信時潔に関するアンケートを保管している、というご連絡をいただきました。信時裕子さんがお送りくださった、アンケートの原本(消印は1985年)と学校音楽新聞のコピーを以下に掲載します。

信時潔アンケート
学校音楽
斎藤は芸大入学当初、信時の第一印象を次のように語っていました。「眉の太い、髭を生やした、ごま塩頭を坊主がりにしたすごく体の大きな先生がもう先に来ておられて、一人でピアノを弾いていらっしゃったので一瞬恐れをなしてしまったのですが、体に似合わず、とても親しい感じを覚えたことを思い起します。」

自身の「回想録」の中では、「作曲を習うというより習作を見て頂き、ご意見を伺うかたちの授業でした」と述べており、信時の指導法は理論よりも実践に重きを置いたスタイルだったようです。それを裏付けるように、「信時先生の授業はバッハのコラールの旋律を用いて新しく四声体を作ることから始まり、次に生徒の作品(主にピアノ曲や歌曲等)を見て頂くのであるが、ほんの少し手直しして下さると、作品が見違える程、実に見事になるので、奥村君(奥村一)と顔を見合わせて、只々驚嘆するばかりで、我々の力不足を思い知らされる事の総てであった。」と述懐していました。

また、当時の心境を次のようにも表わしています。「我々が作った曲の旋律が少々不自然だったりする箇所があると、わざと強調しておかしく弾かれ、その時の恥ずかしさは今も忘れられない。」つまり、まず実践させてみて失敗を経験させる。そして、問題点を指摘し、本人に気づかせ成長を促す。簡単に言うと、このような指導方針だったのではないでしょうか。

さらに芸大卒業後も、斎藤と信時の師弟関係を物語る、次の記述には大変興味を覚えました。「作曲の演奏会に恐る恐るご招待すると、必ず出席され、楽屋までお見えにならない代り、いつも感想を述べ、激励をされるお手紙を忘れずにお寄せ下さった。そのほか、お知らせもしないのに、映画や放送(ラジオやテレビ等の劇の伴奏)で私の作った音楽を聴かれると、その感想に助言を交えたお便りを下さる事も度々あり、その度に感動しては成長して行った。」

信時は、卒業後もずっと斎藤の活躍を見守り、心の支えとなり勇気づけていたのではないでしょうか。程なくして、斎藤は小津安二郎との対面を果たし、非常に大きなチャンスを掴むことになりました。

その時分の心境を、斎藤は「回想録」の中でこう語っていました。「小津安二郎監督と言えば、当時の映画関係者の間では神様の様な存在で、しかも大変厳しい方だという評判は私の耳にも入っておりましたので、夢の様に思われる反面、恐ろしさで身も縮む様な複雑な気持ちでした。」

初めての映画音楽の仕事であり、経験も実績も乏しい20代の新米作曲家が、いきなり小津映画の音楽を任されることは、もちろん大きなチャンスに違いありませんが、かなりのプレッシャーであったことは想像に難くありません。しかも、「東京物語」は老夫婦の悲哀を音楽で表現しなければなりません。その当時、信時は60代後半でした。老夫婦の心情を、音楽で表すにはどうすれば良いのか、何らかの助言が斎藤に与えられたとしても不思議ではないでしょう。なぜならば、「東京物語」の音楽は、20代の新人作曲家の最初の作品としては、実に見事な出来栄えだったと言わざるを得ないからです。

単なる憶測に過ぎませんが、日本を代表する大作曲家信時潔が斎藤高順を通じて、密かに小津映画を音楽面から支援していたと考えると、何とも不思議で興味深いエピソードではないでしょうか。

斎藤高順結婚式 記念撮影より
(左から)斎藤高順 信時潔 小津安二郎

動画について

①ブルー・インパルス ②オーバー・ザ・ギャラクシー ③オンリー・ワン・アース ④輝く銀嶺 ⑤東京物語(吹奏楽アレンジ) ⑥彼岸花(吹奏楽アレンジ) ⑦秋刀魚の味(吹奏楽アレンジ)

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