生存者叙勲の信時潔先生――【学校音楽】昭和40年1月10日(日曜日)

音楽教育の向上に尽した業績の数々――斎藤高順

☆田園の中での生活

このたび生存者叙勲の栄誉に浴された信時潔先生は確か大阪のお生まれとか伺っておりますが、現在の国分寺のお宅は関東大震災の翌年に建てられたそうですから、もう四十年にもなるでしょうか。お子様方も同じ敷地内に隣り合って住んでいらっしゃるので、いつお伺いしても、大抵お孫さん達が一年中花の咲いているお庭で楽しそうに遊んで居らっしゃいます。今でこそ電車やバスでお宅のすぐ近く迄行くことが出来ますが、昭和の初め頃はまだ交通の便が悪く、武蔵野の雑木林の中にぽつんと一軒だけ建っていて前は杉の林、裏は芋畑で夜などとても心細かったとよく奥様が言われました。その頃は雪が降ると玄関がふさがる程積り、奧様と二人でよく雪かきをなさったそうです。汽車も国分寺駅が終点で一日に十回位しかなかったためにかえって上野の音楽学校に通うのに一度も遅刻されなかったそうです。またいろいろな野鳥が庭で遊んでいて、全く田舎だったとのことですから当時としては随分思い切り良く都心から遠くに住まわれたものだと驚かされます。

☆格調の高い音楽の指導

明治の初年に、島崎赤太郎、小山作之助、伊沢修二の諸先生方が十年かかって作られた文部省唱歌が始めは旋律だけだったのを、小学校にもまだピアノが行き渡っていなかった当時、易しく、しかも格調の高い伴奏を附けて音楽教育の向上につくされ、更にそれらの唱歌を現在迄唱われる様にされたのは信時先生の功績です。

◇体に似合わず優しい声

最初に先生にお目にかかったのは昭和十八年の四月、今の芸大、当時の東京音楽学校に入学して初めての授業の時でした。作曲科に入った四人の、割り当てで奥村一君と私が信時先生にきまり、二階の奏楽堂の右側の奥にある教室に二人で恐る恐る入って行くと、眉の太い、髭を生やした、ごま塩頭を坊主がりにしたすごく体の大きな先生がもう先に来ておられて、一人でピアノを弾いていらっしゃったので一瞬恐れをなしてしまったのですが、体に似合わず、とても親しい感じを覚えたことを思い起します。始めの頃は、和声の練習にバッハのコラールばかりやらされて奥村君と二人でくさってましたが、今になってそれが実にためになっておることに気附き、心から感謝しております。四年間先生一人に生徒二人の贅沢な授業で一回、器楽曲や声楽曲を一曲づつ作って持って行くと、先生がピアノを弹きながら、ちょっと手を加えるのですが、ほんのちょっとしたことで曲が見違えるようになりいつも感嘆し又がっかりしたものです。又学内の演奏会で先生の作曲された、独唱、合唱と管弦楽の「海道東征」や、歌曲集「沙羅」その他がよく演奏されました。外国物一辺倒だった当時としては、全く異例のことでした。

☆演奏についての感想文に恐縮

学校を卒業してからは、すっかり御無沙汰をしていたのですが、時たま私共の作曲の発表会等にご招待しますと、必ず出てこられてお帰りになってからいつも心のこもった感想文を送って下さいました。また私共が頼まれて作曲するテレビや映画の音楽にも良く気をつけておられて、全く思いがけない時に、あの時の音楽が良かったとか、悪かったとか、又こうした方が良いとか助言して下さるのでびっくりしたり、恐縮したりしてしまいます。
あんなに度々先生の作品が演奏されるのに先生は著作権の協会にお入りにならず、使用料をお取りにならないと人から聞き驚かされてしまいます。あるいは昔、小山、島崎、伊沢の諸先生が作曲され、現在なお唱われている数々の歌が只文部省唱歌として作者名すら残されていないことに感動され、作品は何時でも誰にも演奏されればそれだけで良いのだとお思いになっていらっしゃるのかも知れません。

☆親戚をたずねるような気持

先生のお宅に伺うようになったのは十年程前からで、私の結婚のお仲人をお願いするために上ったのが最初です。もう表通りはお店がぎっしり並び都心と全く変りない程でしたが、六百坪近い敷地の中にある先生のお宅の周りはまだ武藏野の面影を残す雜木林に囲まれておりました。

sight-and-art.org

動画について

①ブルー・インパルス ②オーバー・ザ・ギャラクシー ③オンリー・ワン・アース ④輝く銀嶺 ⑤東京物語(吹奏楽アレンジ) ⑥彼岸花(吹奏楽アレンジ) ⑦秋刀魚の味(吹奏楽アレンジ)

Translate

category

ページ上部へ戻る
Translate »