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吹奏楽と私
楽しい仲間たち――作曲家・斎藤高順
私が吹奏楽界に何をしたか振り返って見ますと、何ともお恥ずかしい次第で、作曲家として立ってから二十数年間の自分の作品リストを調べても、吹奏楽作品として出版された曲は「希望のあした」「輝く栄冠」「われらが栄光」と「サキソフォーン四重奏曲」及びいくつかの編曲があるくらいで、ほかに未出版の作品では「輝く銀嶺」が去年の十一月に山本正人氏の指揮により東京吹奏楽団と芸大のそれぞれの定期演奏会で発表され、お正月に秋山紀夫氏と山本氏の解説によってNHKのFMから放送されたことと、同じく十一月に阪口新氏のリサイタルで「サキソフォーン四重奏曲第二番」が初演されただけです。いずれもここ一年か二年の間の仕事ですから、吹奏楽界ではほんの駆け出しです。
しかし、私と吹奏楽との最初の出合いはかなり古く、かれこれ二十五年も昔になります。東京音楽学校(今の東京芸術大学)の作曲科に入学したのが昭和十ハ年で、太平洋戦浄の真っただ中でしたので、翌昭和十九年には学生でも、適齢者は不具者以外、すべて兵隊に取られることになってしまいました。
そんな折に、音楽学校の生徒は学校に籍を置いたまま、陸軍戸山学校の軍楽隊に入隊できることになったのです。これは後に聞いた話ですが、音楽学校側と当時の軍楽隊長山口常光氏との間で、かなりのご尽力があったとのことで、感謝に絶えません。
昭和十九年の十月に百二十人が入隊しそのうち十三人が音楽学校からの入隊者です。私と同級生で入隊した者は芥川也寸志君や奥村一君ら五人で、団伊玖磨氏らの七人は音楽学校では上級生でした。現在、作曲そのほかで活躍しておられる芥川君はテノール・サキソフォーンを、秀れたピアノ曲や吹奏楽曲を作曲しておられる奥村君はオーボエを、団氏は小太鼓を、私はアルト・サキソフォーンを当てがわれました。
ほかにピアニストとして活躍され、現在はドイツのベッツドルフ音楽学校教授をされている梶原完氏はオーボエ、声楽家の石津憲一氏はプチット・バス、ヴィオラ奏者として著名な北爪規世氏は小太鼓でした。音楽学校でも管楽器を専攻しており、そのまま同じ楽器を持つことができた者はクラリネットの萩原哲昌氏、トランペットの早川博二、内田富美也の両氏らで、彼らはまったく幸運と言うよりほかはありませんでした。何しろ私にとってサキソフォーンは生れて初めて手にする物でした。
軍楽隊も軍隊ですから規律も厳しく、一通り軍人としての各種の訓練があり、当然ながら食事当番、上官の当番から不寝番、また洗濯から掃除はもちろんのこと、少しでも不始末があればびしびし絞られました。その中にありながら楽器のレッスン(当時は確か各個演習と言っておりました)は毎朝のようにあり、夕食後の自由時間には、それこそ夢中で練習したものです。
現在、サキソフォーン奏者として多忙な日を送っておられる桑島荘次郎氏が私の教官でしたが、時々、手本を示すために演奏される音が、何とも美しく、ついうっとりとしてしまいました。氏は美しい音色そのままの人柄で、私の記憶では厳しい言葉は一度も聞いた覚えがありません。しかし、毎朝、屋外で行なわれるレッスンは、生やさしいものではなく、ちょうど冬のさ中で、指がかじかんで、思うように動かず、情ない思いをすることもしばしばありました。しかし、多勢の生徒を指導なさった教官の方々も、さぞご苦労なことだったでしょう。アルト・サキソフォーンを持たされた同期生は六島芳郎君、田村秀夫君、原田光雄君、それに私の四人でした。当時、生徒係の准尉だった原田喜一氏が原田君の叔父さんで、当時からプチット・バスのほかにチェロをやっておられ、たいへんハンサムな上に、チェロをかかえてさっそうと営門をくぐられる姿がすばらしく、大いに憧れたものです。氏は戦後、NHK交響楽団のチェロ奏者となり、よく放送局などでお会いしましたが、停年後の現在も、昔と変らぬ若々しさでチェロを続けていらっしゃいます。
私は戦後、作曲に専念し、サキソフォーンをつい手にする機会がありませんでしたが、六島、原田の両君は今もサキソフォーンを続け、その道に精進しておられます。現在、テナー・サックスで活躍しているジョージ高野(当時の高野愛蔵)君や宮沢昭君も同期ですが、当時彼らはクラリネットをやっておりました。ただ残念なことは、田村君が十数年前に亡くなられたことで、彼とは戦後もずっと交流があり、昭和二十七年に「サキソフォーン四重奏曲」を作った折、初演の際に阪口新氏を紹介してくださったのも彼でしたし、二番パートを受け持ってくれたのも彼でした。
阪口さんとのお付合いはこの時から始まり、以後、NHKなどで私の作曲したものをよく演奏してくださいましたし、昭和四十二年の夏行なわれたアメリカ吹奏楽視察旅行でもご一緒で、ノースウェスタン大学のヘムケ教授から自宅に招待され、阪口さんや現地におられた大室勇一君と一緒にヘムケ夫人手作りのすごく大きなビフテキをごちそうになったり、ミシガン大学のティール教授とも親しくさせていただきました。この旅行ではほかに、ゴールドマン氏やレベリ博士、作曲家のジャガー氏やハンスバーガー氏とも会うことができ、ことにジャガー氏とは音楽会で席が隣り同志になり、親しく話すことができ、たいそう愉快でした。
話が前後してしまいましたが、軍楽隊の当時は厳しい訓練のおかげで、八ヵ月の生徒期間が終るころは、百人以上の生徒が揃って各自の楽器を一応マスターしりっぱに合奏できるようになり、マーチはもちろん、序曲から交響曲に至るまで人前で演奏したのですから、信じられないほどです。批判はいろいろあるでしょうが、音楽の指導の方法として、軍楽隊のやり方も秀れた一つの方法ではないでしょうか。
さて生徒期間が終ってから私には一つの幸運が舞い込んできたのです。当時、音楽学校の作曲科から来た芥川、奥村の両君、及び団氏と私の四人に、ほかの作業をやめて作曲作業をすべし、と言う命令が下されたのです。当時、召集で来られた作曲家の諸井三郎少尉の指導で、行進曲や部隊歌などを作曲するよう命ぜられたのですが、これは本当に夢みたいなことでした。初めて自分の書いた吹奏楽曲を、自分の耳で聴くことができるのです。作曲上の誤りから、とんでもない音がして、消え入りそうになったり、書き直したところ、これが自分の曲かと疑うほどのすばらしい響きに、我を忘れたりしました。何しろ作った曲がすぐさまほとんど上官ばかりのベストメンバーによって、音になるのですから、こんなに楽しく、また一面、身の引き締まることはありませんでした。
当時の上官には山口隊長をはじめ、小山卯三郎、水島数雄、岡田与祖治、河野孝三、小野崎毅、斎藤徳三郎、野崎末吉、田辺堯、佐藤正二郎、西村初夫、佐藤長助、永田絃二郎、加藤為三郎らの諸氏及び桑島氏、原田氏らがおられ、いずれも現在、吹奏楽界はもちろんのこと、NHK、その他の交響楽団などで活躍しておられるりっぱな方々ばかりです。ですからその後二ヵ月で終戦になった時は、本当にがっかりしました。軍楽隊は解散し音楽学校から来た者は復学し、昭和二十二年に卒業しました。
その後は各人それぞれ専門の道に進んだのですが、二十二年後の今日、驚いたことに私たちの同級生には吹奏楽の作曲や指導をしている人たちが抜群に多く、しかも、軍楽隊に行った者ばかりとは限らないのです。現在、芸大でフルー卜の教鞭を取っておられる川崎優君は、早くから吹奏楽に関心を持たれ、生徒を指導するほかに、コンクールの課題曲となった行進曲「希望」や「平和の前進」などの吹奏楽曲を作られ、日本以外でも演奏され、アメリカではカールフィッシャーなどからも出版されております。
私に、せっかく軍楽隊で貴重な体験をしたのだから、それを生かして吹奏楽の曲を作らないか、と勧めてくれたのは彼です。それが今から三年ほど前なのですが、そこで初めて作ったのが「輝く栄冠」で、出版されるや各地で演奏され、ニューヨークではゴールドマンバンドによっても演奏されました。さらにラッキーなことは、アメリカのフォルクワイン社からも出版がきまり、すでに印刷が上ったという報告がありました。
川崎君とは学生時代から親しくしており、在学中から一緒にアンサンブルを作って駐留軍廻りをしたり、NHKから放送をしたりしました。十五分の放送のために一ヵ月も前から、毎日のように集っては練習をしたものです。彼はもちろんフルートですが、私はピアノを弾きました。二級下の小出妙子さんと言う美しいヴァイオリニストがメンバーの一員で、川崎君と特に親密だったために、大いに悩まされたものですが、彼女が現在の川崎夫人です。
同じくヴァイオリンをひいていた仲間に、これはまた昨年のJBA作曲募集に「冬山に逝ける若者への祈り」を出してみごと金的を射止めた岩河三郎君がいます。彼も同級で声楽専攻だったのに、今では作曲家として多方面で活躍しております。
私の「希望のあした」や「サキソフォーン四重奏曲」の出版にお力添えくださった音楽之友社出版部長兼東亜音楽社社長の浅香淳君も同級で、彼が声楽専攻で、美しい張りのあるテノール歌手であることは、関係者の間でもあまり知られていないでしょう。在学中、彼や同級のソプラノ安部けいさんの伴奏をよくしました。卒業後、浅香君は音楽之友社に入り、出版の仕事に打ち込まれたので、もっぱら…(以下資料紛失)