「バンドジャーナル 2004年7月号」より
福田滋氏には何度かお会いする機会がありましたが、いつもその博学ぶり、旺盛な好奇心と圧倒的な行動力には驚かされます。中でも、加山雄三宅へ突撃取材を敢行した逸話には本当に感服させられました。
一見、音楽家というよりもジャーナリストか評論家ではないかとの印象も受けますが、やはり音楽をこよなく愛し、吹奏楽に捧げる情熱と更なる発展を願う熱き心は、音楽家の姿そのものではないかと感じます。
「バンドジャーナル 2004年7月号」より、福田滋氏の執筆による「追悼・齋藤高順 吹奏楽との縁」の記事を、以下に引用し掲載します。
追悼・齋藤高順 吹奏楽との縁
福田 滋(陸上自衛隊中央音楽隊チーフ・ライブラリアン)突然の訃報
作曲家であり、航空自衛隊航空音楽隊(現・航空自衛隊航空中央音楽隊)、警視庁音楽隊の隊長を歴任された齋藤高順(さいとうたかのぶ)先生が、去る4月11日に虚血性心不全のため亡くなられた。享年79歳であった。
本当に突然の訃報だった。「斎藤先生がお亡くなりになりました」と帰宅途中の電話で知らされ愕然とした。つい先日お宅を訪問したばかりだったのだ。ここ数年、先生の希望で、作品をさらに全国のバンドに演奏してもらえるように楽譜出版の準備をしていた矢先のことであった。
氏は、今年生誕100周年を迎えた小津安二郎監督の映画《東京物語》(1953年)や《秋刀魚の味》(1962年)などの音楽担当をするなど、戦後を代表する作曲家のひとりで、吹奏楽にも造詣が深く作品も数多い。全日本吹奏楽コンクール課題曲《輝く銀嶺》(1967年)、《オーバー・ザ・ギャラクシー》(1980年)などは読者にもお馴染みであろう。まずは、氏と吹奏楽との関わりの始まりである陸軍戸山学校軍楽隊の話を紹介したい。東京音楽学校から陸軍戸山学校軍楽隊へ入隊
齋藤氏は太平洋戦争最中、昭和18年(1943年)に東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学した。翌19年戦争が激しくなるなか、音楽学校の乗杉校長が陸軍軍楽隊長の山口常光氏に直接相談し、生徒は音楽学校に籍を置いたまま軍楽隊に入隊できることになる。19年10月に音楽学校の学生14人が入隊、そのなかには芥川也寸志、奥村一、團伊玖磨らがいた。軍楽隊の楽器が未経験の齋藤氏は突然アルト・サクソフォーンを持たされるが、厳しいレッスンのお陰で数ヶ月後には、立派な軍楽隊のメンバーになれたという。生徒期間が終わると、齋藤氏に幸運が訪れる。作曲科から来た芥川、奥村、團の各氏と自分の4人に他の作業をやめて作曲作業をすべし、との命令が下り、行進曲や部隊歌などを作曲・編曲するようになった。これはその後のために大変に勉強になったようだ。しかし、その後約2ヶ月で終戦になり軍楽隊は解散。氏は「ここでずっと、一生の仕事として作曲と吹奏楽をできたのに…」と当時を述懐している。作曲家として活躍
その後、齋藤氏はNHKや民間放送の音楽、映画音楽の作曲を始めるが、《輝く栄冠》という行進曲を作曲・出版した縁で、かつて軍楽隊長であった山口氏と再会。山口氏から当時警視庁音楽隊長の松本秀喜氏を紹介される。松本氏は陸軍軍楽隊出身で初代航空音楽隊長を務めた人物で、この後の齋藤氏の人生に大きく関わってくる。航空音楽隊長就任から警視庁音楽隊長時代
1970年、大阪で開催された日本万国博覧会で「みどり館アストロラマ(全天全周映画)」の音楽《前進》を作曲し、巨大スクリーンに航空自衛隊音楽隊が登場する。そのときの縁と松本氏の勧めで、航空音楽隊の隊長(1972-76年)として赴任する。航空音楽隊長時代は《オンリー・ワン・アース》、《自然への回帰》など充実した作品を残す。その後、松本隊長の後任として警視庁音楽隊長(1976-86年)に着任。「水曜コンサート」のために、行進曲や独奏曲などの小品を多数発表している。代表作、行進曲《ブルー・インパルス》のこと
さて、齋藤氏の代表作として知られるこの曲は、航空音楽隊第10回定期演奏会(1970年)の委嘱作品であり、ジェット・アクロバット・チーム“ブルー・インパルス”のために作曲されたものである。初演時は、ステージ上でブルー・インパルスの隊長にスコアを贈るセレモニー後に演奏に入った。曲想は壮大な情景をボサノバのリズムとシンコペーションの多用で、今までのマーチの概念を破る作品として注目され、後にFM東京のフレッシュ・モーニングのテーマとして2年間にわたり放送され、さらに多くの人たちに親しまれた。この作品、意外にも航空音楽隊長就任前のものであることはあまり知られていない。人間・齋藤高順、その人柄
もうひとつ語っておかなければならないことは、氏のお人柄である。奥様である園子夫人は、「結婚生活49年、4男1女の5人の子どもがおりますが、主人が子どもを怒った姿を見たことがございません。勿論、私とも喧嘩らしい喧嘩をした記憶もございません。航空音楽隊の後、警視庁音楽隊へ行きそこで病に冒されることになりましたが、愚痴をいわず家族に心配をかけるようなこともなく、ほんとうに感謝しています」と語る。作曲家の岩河三郎氏は「おだやかな人でした。私を吹奏楽の世界に誘ってくれたのも齋藤さんでした」。前警視庁音楽隊長の牟田久壽氏は「素晴らしいお人柄で、心の豊かな方でした。齋藤先生の《エメラルドの四季》という作品を皇后陛下にお聞かせし、CDをプレゼントしたことがよい思い出です」と語ってくださった。氏は、誰にも愛される人格者であったことをうかがい知ることができる。吹奏楽ファン必聴の齋藤芸術
最後に小津安二郎監督作品につけた音楽の素晴らしさを、ぜひ吹奏楽ファンにも知ってもらいたいと思う。軽妙なポルカ、シャンソン風のマーチ。幸いこれらの作品を含んだ楽譜とCDが出版の予定である。そこには単なる劇伴でなく、小津の理想を実現させた芸術が脈々と息づいている。
最後にお会いしたのは、お亡くなりになる数週間前のことである。辞去する際「いろいろとありがとう」と手を差しのべていただき、しっかりと握った手のあたたかさが今も忘れられない。齋藤先生、長い間本当にありがとうございました。