「日本の作曲家と吹奏楽の世界」より
著者の福田滋氏は、陸上自衛隊中央音楽隊でユーフォニアム奏者兼チーフ・ライブラリアンを務める自衛官でした。その一方、地元埼玉で幅広い音楽活動を展開する傍ら、月刊誌「バンドジャーナル」の連載を受け持ち、作曲家や遺族への丹念な取材・執筆活動を行ってきました。それらの集大成ともいえるのが、著書「日本の作曲家と吹奏楽の世界」です。
父と福田氏は、同じ自衛隊音楽隊出身ということもあり、色々な交流があったようです。この記事は、晩年の父への取材を中心に、母や関係者から収集した情報に基づき執筆されたとのことです。昭和の初期から平成の時代まで、吹奏楽のみならず日本音楽界に大きな足跡を残した数々の作曲家に関して、これほど詳細に調査されている文献は稀ではないかと思います。
大変貴重なお仕事を成し遂げた福田氏には、心より敬意と感謝の思いを抱かざるを得ません。父の功績を正確かつ簡潔に解説してくださっている同書から、「齋藤高順 ポルカからマーチ、あざやかな転身」のパートを、以下に引用し掲載させていただきます。
齋藤高順 ポルカからマーチ、あざやかな転身
福田 滋(陸上自衛隊中央音楽隊チーフ・ライブラリアン)
スタンダードが演奏できない
我が国ではテレビ番組などの影響もあり、演奏して楽しむ吹奏楽の人気はまさにブームといっていい。毎年新しいオリジナル作品やヒット曲の編曲物が湯水のように生み出されている楽譜天国だ。しかしながら過去の名作を演奏しようとすると少し困ることになる。演奏に必要な楽譜が手に入らないのだ。出版社は在庫を抱えるリスクを回避し、版権の問題が再販を阻み、以前に出版されていた楽譜も現在ではほとんどが演奏出来ないのが現状。レンタル楽譜が持てはやされるのもうなずける。しかし、この状況を良しとしない気運が高まってきていて、今回、要望の強い齋藤高順作品のいくつかが再出版されることになった。ファンとしても研究家にとっても大変喜ばしいことである。懐かしい名曲の復刻
再び我々の元に帰ってくるのは、課題曲として人気のあった《輝く銀嶺》(七一年)と《オーバー・ザ・ギャラクシー》(八〇年)、そして氏の代表作《ブルー・インパルス》[注1]というラインナップ。また齋藤の代名詞といえる小津安二郎監督の映画音楽から《東京物語》《彼岸花》《秋刀魚の味》という三作品も作曲者自身の編曲で出版されることになった[注2]。音楽学校から軍楽隊へ
斎藤は、太平洋戦争最中の四三年に東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学、翌四四年には学生であっても適齢者はすべて兵隊にとられることになっていた。そんな時期、音楽学校の乗杉校長が、「学徒動員で狩り出されるなら、むしろ音楽技術を以って戦争協力させたい」と陸軍軍楽隊長の山口常光[注3]に直接相談、すると山口は「軍楽隊の質が上がるから大賛成」と阿南陸軍大臣に直訴、運よく生徒は音楽学校に籍を置いたまま軍楽隊に入隊できることになった。四四年十月に音楽学校の学生十四人が入隊、軍楽隊の楽器が未経験の齋藤は突然アルト・サクソフォンを持たされる。軍楽隊の厳しいレッスンのお陰で数ヶ月後には軍楽隊のメンバーとして立派な演奏ができるようになっていた。生徒期間が終わった齋藤に幸運が訪れる。作曲科出身の芥川、奥村、團と齋藤の4人は他の作業を中止して作曲作業に専念すべし、との命令が下った。それからは召集で来ていた作曲家の諸井三郎少尉の指導で、行進曲や部隊の歌などの作曲・編曲に明け暮れた。これはその後のために大変に勉強になったそうだ。しかし、その後約二ヶ月で終戦となり軍楽隊は解散。齋藤は「ここでずっと、一生の仕事として作曲と吹奏楽ができたのに・・・」と当時を述懐している。一人立ち、そして転身
その後、齋藤氏はNHKや民間放送の音楽や映画音楽[注4]の作曲を続けるが《輝く栄冠》という行進曲を作曲・出版した縁でJBA(日本吹奏楽指導者協会)のアメリカ吹奏楽視察旅行(六七年)に誘われる。視察団長は、かつて軍楽隊長であった山口氏であり、そこで当時警視庁音楽隊長の松本秀喜を紹介される。松本氏は陸軍軍楽隊出身で初代航空音楽隊長を務めた人物で、この後齋藤の人生に大きく関わってくることになる。航空音楽隊長就任から警視庁音楽隊長時代
七〇年、大阪で開催された日本万国博覧会で「みどり館アストロラマ(全天全周映画)」の音楽《前進》を作曲、巨大スクリーンに航空自衛隊音楽隊が登場する。その時の出会いと松本氏の勧めで、航空音楽隊の隊長(七二~七六)として赴任する。航空音楽隊長時代は《オンリー・ワン・アース》、《自然への回帰》、《銀翼》など充実した作品を残した。その後更に松本隊長の後任として警視庁音楽隊長(七六~八六)として勤務。今度は「水曜コンサート」のために行進曲や独奏曲などの小品を多数作曲した。人間・齋藤高順、その人柄
「結婚生活四十八年、四男一女の五人の子供が居りますが、主人が子供を怒った姿を見た事がございません。勿論、私とも喧嘩らしい喧嘩をした記憶もございません。航空音楽隊の後、警視庁音楽隊へ行きそこで病に冒されることになりましたが、愚痴も言わない人でした。その後、再び病に冒されますが、それでも家族に心配をかけるようなことはなく、本当に感謝しています。」と園子夫人は笑顔で語ってくれた。
晩年、私はご自宅に通わせていただいたが、神様のような存在の齋藤先生はいつも優しい言葉で丁寧に様々なことを教えてくださった。最後にお会いしたのは、お亡くなりになる数週間前のことであるが、辞去する際「いつも、いろいろとありがとう」と手を差し伸べていただき、握った手のぬくもりが今も忘れられない。[注1]氏の代表作として知られるこの曲は、航空音楽隊第十回定期演奏会(七〇年)の委嘱作品であり、ジェット・アクロバット・チーム“ブルー・インパルス”のために作曲されたもの。初演の時は、ステージ上でブルー・インパルスの隊長にスコアを贈るセレモニーの後に演奏に入った。曲は壮大な情景をボサノバのリズムとシンコペーションの多用で、今までのマーチの概念を破った作品として注目され、後にFM東京のフレッシュ・モーニングのテーマとして二年間にわたり放送され更に親しまれた。この作品、意外にも航空音楽隊長就任前のものであることは案外知られていない。
[注2]エイトカンパニィから販売楽譜として一二年に出版予定。《輝ぐ銀嶺》と《オーバー・ザ・ギャラクシー》《東京物語》など。
[注3]一八九四年長崎県生まれ。一九一二年陸軍戸山学校軍楽科(クラリネット)に入り、三〇年からフランス、ドイツに留学。四二年戸山学校軍楽隊長へ。戦後は皇宮奏楽隊長、NHK吹奏楽団長を経て四八年から五七年まで警視庁音楽隊長。六〇年相愛女子大学教授。七七年死去。
[注4]小津安二郎監督の映画『東京物語』(五三年)でデビューすると監督のお気に入り作曲家として、遺作となった『秋刀魚の味』(六二)まで音楽を担当し続けた。日本が世界に誇る映画監督の小津安二郎は、一九〇三年東京深川に生まれる。松竹キネマ蒲田撮影所に入社。以来、生涯五十四作品でメガホンをとり、サイレント、トーキー、モノクロ、カラーそれぞれの時代に匠としての芸術を焼き付ける。六三年、満六十歳の誕生日に死去。五八年紫綬褒章受章、五九年芸術院賞受賞、六二年芸術院会員。[主要作品]
●吹奏楽(作曲)
《コンサート・マーチ“輝く栄冠”》六八年
《行進曲“希望のあした”》六七年
《式典曲“我等が栄光”》六七年
《行進曲“輝く銀嶺”》六七年課題曲
《行進曲“輝く前進”》六九年
《バンドのためのプレリュード“叫び”》六九年
《行進曲“ブルー・インパルス(青い衝撃)”》七〇年
《行進曲“フライング・エキスプレス”》七一年
《交響詩“オンリー・ワン・アース(かけがえのない地球)”》七二年
《交響詩“母なる海”》七三年
《自然への回帰》七三年
《式典曲“美と栄光”》七四年
《行進曲“銀翼”》七四年
《行進曲“ジャスト・ライダー”》七四年
《組曲“エメラルドの四季”》七四年
《クラリネットと吹奏楽のための“バラード”》七四年
《交響詩“空”》七五年
《郷愁の街“深川”》七六年
《バンドのためのメルヘン“マッチ売りの少女”》七七年
《行進曲“マンリーマン”》七八年
《ホルン四重奏とバンドのための行進曲“マーチング・エスカルゴ”》七八年
《ユーフォ二アム独奏とバンドのための“花のコンチェルト”》七八年
《テューバ独奏とバンドのための行進曲》七八年
《トロンボーン独奏とバンドのための“秋のロマンス”》七八年
《バンドのためのメディテイション“再会”》七九年
《行進曲“オーバー・ザ・ギャラクシー”》七九年課題曲
《行進曲“ビューティフル・トウキョウ”》八〇年
《行進曲“ウエンズデイト”》八一年
《バンドのためのインテルメッツォ“夢現”》八二年
《誇り高き雄姿》八五年
《バンドのためのコンチェルティーノ》
《行進曲“小笠原の海と空”》九三年
《バンドのためのファンタジー“永遠の輝き”水彩都市こうとう》九七年
●吹奏楽(編曲)
《映画『東京物語』より“主題と夜想曲”》
《映画『彼岸花』より“主題曲”》
《映画『秋刀魚の昧』より“主題曲とポルカ”》
●管弦楽・器楽曲
《室内管弦楽のための交響曲》五五年
《フルートと弦楽四重奏のためのソナタ》五二年
《クラリネットとヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによる“四季”》五三年
《ヴァイオリン、ハープ、打楽器のための作品》五四年
《サクソフォン四重奏》五二年
●舞踏曲
《バレエ“大人の絵本”》五九年