懐古 ~音楽学校の頃~
『むかしの仲間』 第12号 1992年秋 斎藤高順
私が音楽の勉強を始めようと考えた頃は、日支事変の最中で旧制中学2年の時でした。始めは斎藤太計雄先生にすすめられて萩窪のお宅へ伺って理論のレッスンを受け、中学3年の時に中々承知して貰えなかった父が、やっとアップライト・ピアノを買ってくれた時の嬉しさは一生忘れられません。そこで、理論と同時にピアノのレッスンも開始し、作曲の勉強に益々熱が入りました。
昭和17年に東京音楽学校の作曲科を受験し、失敗しました。当時は東京音楽学校(現・芸大)だけにしか作曲科がなかったので、武蔵野音楽学校のピアノ科を受験したところ、何とかそこに入学出来ましたが、しかしどうしても作曲科に入りたかったので、細川碧先生に田園調布のお宅で作曲のレッスンを受け、翌昭和18年にようやく念願の東京音楽学校作曲科に入学することが出来ました。
当時の作曲科の同級生は4人で、芥川也寸志・奥村一・依田昌忠(現・光正)の諸君と私でした。学校のレッスンは奥村君と私は信時潔先生で、あとの二人は下総皖一先生でしたが、4人一緒に橋本国彦先生と細川碧先生の授業も受けました。後で聞いて驚きましたが、受験勉強の際に奥村君も細川先生のレッスンに通っていたそうです。
その頃は太平洋戦争の末期で、徴兵猶予も廃止になって音楽学生も次々と戦地で命を断たれたとのことでした。そこで、折角勉強した音楽を何とか役立たせたいと、当時の音楽学校長乗杉嘉寿先生が陸軍戸山学校軍楽隊長の山口常光氏に相談し、山口隊長が陸軍大臣にお願いしたところ、話が好転し、徴兵適齢の音楽学生が軍楽隊に入隊出来ることになったのです。
そして、昭和19年10月に音楽学校から14人が陸軍軍楽隊に入りました。芥川・奥村両君と私、それに上教生では団伊玖磨氏も一緒でした。依田君は年が若かったので加わって居りません。作曲家の諸井三郎先生が教官で居られたので、我々作曲の4人は作曲作業を命ぜられ、快適な軍楽隊生活でした。その上、管楽器の書き方も修得出来たし、実際に楽器もマスター出来たのです。芥川君と私はサキソフォーンを、奥村君はオーボエとファゴットを、団さんは各種パーカッション(打楽器)をそれぞれ身につけることが出来ました。
しかし、翌昭和20年8月15日に戦争が終わり軍楽隊は解散しました。そして音楽学校に復学すると、軍楽隊に入隊中に進級し3年生になって居り昭和21年に4年生、22年に卒業。続けて研究科(作曲科)に進み、研究科では作曲を池内友次郎、伊福部昭の両先生に、指揮法を金子登先生の授業を受けさせて頂き、昭和24年に修了しました。
今日、無事に音楽の仕事を続けて居られるのは、音楽学校長の乗杉先生と山口軍楽隊長のお二人のお蔭で、また何より私どもの命の大恩人なのです。心から深く感謝して居る次第です。