小津組御用達の名店「尾花」

長年の悲願であった、南千住の「尾花」へやってきました。「尾花」は鰻の老舗、都内でも最高ランクと言われる名店です。

鰻は昔から大好物ですが、ここ数年の深刻な不漁による品薄状態が続いており、価格が高騰しているため口にする機会がめっきり減りました。まして「尾花」は値段が高いことでも有名なので、なかなか行ってみる決心がつかずにいました。しかし、たまたま知人が南千住へ転居し、毎日行列ができる「尾花」のことを話題にしたこともあり、良い機会なので一緒に行ってみることにしたのです。

「尾花」の存在を知ったのは、父が遺した文章の中にその店名が度々登場していたからでした。小津監督は気心の知れたスタッフを引き連れて、ご自分の誕生日に神田の「ぼたん」、大晦日には南千住の「尾花」へ行くのが恒例行事だったのです。


父も小津組飲み会メンバーの一人に含まれていました。12月12日が「ぼたん」、12月31日が「尾花」、そして翌1月2日は北鎌倉のお宅でご馳走になるのが毎年の通例だったそうです。この飲み会は、小津監督が年末年始を蓼科高原の山荘で過すようになるまで続きました。年末年始は忘年会や新年会が目白押しでしたから、小津監督の呑み過ぎを心配したご母堂あさゑさんが蓼科高原行きを勧めたのがきっかけだったようです。

蓼科高原には野田高梧が別荘を構えていたので、年末年始を野田夫妻と共に大自然の中でゆっくり過ごして欲しいという親心からだったのではないでしょうか。ところが、地元の銘酒ダイヤ菊がすっかり気に入ってしまった小津監督は、野田高梧と一緒にダイヤ菊の一升瓶を100本も飲み干してしまったという逸話は今も語り草になっています。


話は横道に逸れましたが、「尾花」では女将に少しだけ当時のことをお伺いすることができました。何しろ60年以上も前のことですし、女将自身は小学校低学年の頃だったらしく、はっきりと記憶しているわけではありませんが、確かに小津監督がスタッフを大勢引き連れて来店したことがあったそうです。

小津監督たちは一般客が通される大広間の方ではなく、隣接する離れの間で宴会を行っていたとのことでした。また、当時は近くに都電が走っていたそうで、小津監督ご一行は都電を利用してお店まで来ていたのではないかとも仰っていました。すると、大晦日に「尾花」を訪れたスタッフ一同は、宴会のあと再度都電に乗って浅草まで行った可能性があります。皆で浅草寺へ行ってお参りをしたあと、少し小腹が減ったときには「並木藪蕎麦」で年越し蕎麦を食べることもあったと聞いています。


ちなみに、小津監督が大晦日に鰻を食べることにしたのは、鰻のように太く長く生きたいという願掛けのためだったそうです。そのために選んだのが、鰻の名店「尾花」だったのです。
鰻重とお新香、それに冷酒は最高に美味でした。たまにはこのような名店で、贅沢なひと時を過ごしてみてるのも大切だな…と思える豊かな時間でした。

動画について

①ブルー・インパルス ②オーバー・ザ・ギャラクシー ③オンリー・ワン・アース ④輝く銀嶺 ⑤東京物語(吹奏楽アレンジ) ⑥彼岸花(吹奏楽アレンジ) ⑦秋刀魚の味(吹奏楽アレンジ)

Translate

category

ページ上部へ戻る
Translate »