代用教員時代を経て
先日、斉藤香さんという方から、丁寧なお問い合わせのメールをいただきました。斉藤さんは、母校(横浜にある私立精華小学校)の会報誌に掲載するため、校歌に関する記事を執筆中とのことでした。
今、卒業生の会報紙掲載記事作成のため、母校の校歌について調べておりますが、作曲が斎藤高順氏であることから、こちらのサイトに行き着き、とても興味深く読ませて頂いております。何気なく歌っていた校歌の作曲者が斎藤高順氏であることを、卒業後40余年経って、初めて認識致しました。お恥ずかしい限りです。
父は、1949年(昭和24年)3月に東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)の研究科を修了しましたが、はじめの頃は進駐軍のディナーアンサンブルでピアノを弾いたり、地方の音楽教室でピアノ伴奏をしたり、ラジオの学校向け放送の作・編曲などをしながら生活しており、たしかその頃に代用教員を勤めた経験があるという話を母から聞いた憶えがありました。しかし、残念ながらそれを示す具体的な資料が見つかりませんでした。
その頃に撮ったと思われる写真が残っており、一緒に写っているのは教員仲間ではないかと推測しますが確証はありません。(教員仲間との記念写真。中央が父高順)
その後、斉藤さんから再びメールをいただき、事実が明らかになりました。
お父上、高順氏は昭和25年5月から、26年10月まで神奈川学園の音楽科教諭として勤務され、また、同時に精華小学校の授業も担当して下さったようです。
上記の文章と資料を拝見し、長年の謎が解明されました。今回いただいたメールによって、代用教員として勤務した事実が判明したのです。(演奏仲間との記念写真。撮影場所は精華小学校の校庭?)
以下は、精華小学校で代用教員を務めた翌年頃の父の回想録を引用しました。
時は昭和27年、東京音楽学校(現在の東京芸大)の研究科を卒業し、早くも三年が過ぎようとしていました。その頃の私は、作曲家として独り立ちしたものの、とても生活を支えるほどの収入を得ることはできず、進駐軍のディナーパーティーでピアノ演奏をしたり、地方の音楽教室でピアノを教えたりして、どうにか食いつないでいるような状態でした。
あの時代、作曲家にとって一番の収入源は映画音楽の仕事をすることでした。しかし、黒澤作品でお馴染みの早坂文雄さんや、後にゴジラ映画で世界的名声を博す伊福部明さんなどのベテラン作曲家が活躍していた頃で、自分のような新人作曲家にとっては夢のまた夢のような話でした。
そんなある日、NHKのラジオ番組の仕事でご一緒した声楽家の今村桜子さんを介して、思いがけないチャンスが訪れたのです。今村さんはこんなことを言われました。「これから、松竹大船撮影所の音楽部で指揮者をしている吉澤博先生とお会いするけど、もし良かったら斎藤さんもご一緒しませんか。」たまたま、今村さんと吉澤さんはお知り合いだったのです。
吉澤さんとは以前に一度だけお会いしたことがありました。東京音楽学校の卒業を間近に控えていた頃、ピアノと指揮法を指導していただいた金子登先生から「斎藤君は卒業したら、どんな仕事に就きたいと考えてるの?」と聞かれ、「実は、映画音楽の仕事に就きたいと考えています。」と答えました。
すると、金子先生は松竹大船撮影所の城戸四郎所長と懇意にしている方を紹介してくださり、その方の紹介状を持って大船撮影所を訪ねたことがありました。その時は、残念ながら城戸所長にはお会いできませんでしたが、大船撮影所の音楽部へ案内されて、そこで吉澤さんとお会いする機会があったのです。もちろん、すぐに映画音楽の仕事を任されるはずもなく、あれから三年ほどが経過していました。
今村さんと私は、笄町(現在の西麻布)にある吉澤さんのお宅を訪問することにしました。その日は、ご挨拶と他愛のない世間話のような会話を交わしただけでしたが、その頃吉澤さんは小津安二郎監督から、新人の作曲家を探して欲しいと頼まれていたのです。
次回作の作曲を担当するはずだった伊藤宜二さんと小津監督との間で、映画音楽に対する意見の相違が生じたため、伊藤さんが音楽監督を辞退してしまったのです。もう一人、前作「お茶漬けの味」で作曲を担当した斎藤一郎さんは、すでに映画音楽の予定を十数本も抱えており、とてもスケジュール的に無理とのことでした。間もなく撮影に入る段階でもあり、困った小津監督は急いで後任の作曲家を探すよう吉澤さんに頼んでいたのです。
吉澤さんは、早速私が作曲したラジオドラマの音楽などを聴き、私の作風が小津映画に合うのではないかと直感したそうです。そして、吉澤さんの推薦により、間もなく小津監督との面談が決まりました。
以下、小津監督との初対面から音楽監督へ採用されるまでの経緯について述べていますが、以前からこの部分は少々端折り過ぎではないかと感じていました。父の証言に基づいて再現すると、次のようなやり取りがなされたようです。
吉澤さんから連絡を頂いたときは、嬉しさよりも驚きの方が大きかったと言えるでしょう。何しろ自分のような新人作曲家が、天下の小津安二郎監督にお会いできるのですから。吉澤さんに連れられて、初めて松竹大船撮影所を訪ねた日のことは今でも鮮明に憶えています。小津安二郎監督といえば、当時の映画関係者の間では神様のような存在と言われ、またとても厳しい監督であるという噂は私の耳にも届いておりましたので、小津監督にお会いできることは大変光栄なことである反面、恐ろしさで身も縮むような複雑な心境でした。
初めて目にした小津監督は、まるで大きな岩のような威圧感があり、私はすっかり萎縮してしまいました。緊張のあまり黙って下を向いていた私に、小津監督は開口一番「斎藤君は、これまでにどんな映画音楽の仕事をしましたか?」と聞かれました。私は、恐る恐る「いいえ、まだ一度も経験がありません。もし採用していただけたら、先生のお仕事が最初になります。」と答えました。
すると、小津監督はニコニコ笑いながら「そいつはいいや。」と仰ったのです。そして、驚いたことに私の起用を即決してしまい、助監督の山本浩三さんに台本を持ってこさせ私に手渡しました。台本の表紙には、昭和28年度芸術祭参加作品「東京物語」と書かれていました。
父は、代用教員を務めた翌年の1952年(昭和27年)に小津安二郎監督とお会いする機会を得たことになります。その当時、父は作曲家としての実績はほとんど無いに等しい状態でしたが、何故か小津監督に気に入られ「東京物語」の音楽監督に抜擢されたのです。
俳優やスタッフの人選はもとより、小物や着物の柄にさえ徹底的なこだわりを見せた小津監督が、父の起用を即断した決め手は一体何だったのか…これは大きな謎でした。
ひとつ考えられるのが、二人とも同じ東京深川で生まれ育ち、青少年時代を江戸文化の名残りある下町で過ごしました。そこで目にした風景や触れ合った人々、日常耳にしていた長唄や義太夫など、多くの懐かしい記憶を共有していた点が挙げられます。
そして、小津監督にとってかけがえのない思い出である、三重県松坂における小学校の代用教員時代のことでした。型破りな代用教員として子供たちに慕われたオーヅ先生でしたが、わずか一年で東京深川へ戻り、念願だった松竹に入社しました。父もつい前年まで精華小学校で代用教員を務めており、長年の夢である映画音楽の仕事に就こうとしていました。似たような境遇を持ち、たった今大きなチャンスを掴みかけている若者に、どこか昔の自分を見ているような感覚を抱いたのかも知れません。
小津監督は、俳優を起用する際に演技が上手いかどうかよりも、まず人間性を判断の基準にしたそうです。父を起用する際にも、音楽家としての力量よりこれから長く一緒に仕事を続けていける人間かどうかを見ていたのかも知れません。その一つの決め手となったのは、小学校の代用教員を務めたという共通点にあったのではないかと思いますが、果して真相はどうだったのかは誰にもわかりません。