「東京物語」弦楽五重奏の楽譜
「東京物語」に弦楽五重奏曲の楽譜があることは、私も含め親族の多くが認識していたはずです。ただ、残念ながらその価値に気付くものは、これまで誰もいませんでした。
2018年秋、「東京物語」を含む小津映画音楽のピアノ演奏によるCDと楽譜が発売されました。父が作曲した「東京物語」「早春」「東京暮色」「彼岸花」「浮草」「秋日和」「秋刀魚の味」の各作品が、父自身の手によってピアノ曲として書き直され、小津映画音楽ピアノ作品集として蘇りました。
築地の国立がんセンターへ見舞いに訪れた父に、病床の小津監督は「斎藤君、僕の映画のために書いた楽譜は大事にとっておきなさいよ。きっとまた役に立つことがあるからね。」と仰ったそうです。小津監督は父が作った曲に深い愛着を持ち、その価値を誰よりもよくご存じだったのではないでしょうか。
父は小津監督の言い付け通り、2004年に亡くなるまで楽譜を大切に保管していました。一部欠落はあるものの、ほぼ完全に近い状態で遺っており、現在は私が保管しています。ただ、残念だったのはこれらの楽譜が初めて演奏されたのが、2015年大阪いずみホールで行われたセンチュリー交響楽団による「東京物語」の主題曲と夜想曲のみであり、父が亡くなってから11年も後のことでした。
『オーケストラでの演奏は叶わなかったが、編成を変えてピアノ曲、または室内楽曲として書き直してみてはどうだろうか…。そうすれば演奏される機会が増すのではないか…。』晩年にさしかかった父は、そのように考えたのかも知れません。小津映画音楽ピアノ作品集の音源と楽譜が見つかったのは2015年の秋でした。一方、「東京物語」の弦楽五重奏曲はチェロ奏者の叔父鶴吉に預けられ、叔父の手によってスコアとパート譜が浄書されました。浄書された楽譜が父の手元に戻ったのは2003年でした。
もしかすると、父は2003年の小津安二郎生誕100周年に合わせて、「東京物語」の弦楽五重奏曲と小津映画音楽ピアノ作品集を公表するつもりだったのかも知れません。しかし、病の後遺症もあり、気力も衰えていた父はその願いを果たせないまま、翌2004年にこの世を去りました。
「東京物語」の弦楽五重奏曲に籠められた思いとは、一体どのようなものだったのでしょうか。弦楽五重奏の編成は、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスです。斎藤ファミリーはプロの演奏家が多く、第二ヴァイオリン以下、ヴィオラ、チェロ、コントラバスは兄妹だけでも対応できます。「東京物語」のオリジナル録音では、当時東京交響楽団のコンサートマスターを務めた鳩山寛さんが第一ヴァイオリニストでした。第一線で活躍する俊英を第一ヴァイオリンに起用し、それ以外は斎藤ファミリーが支えるという編成が望ましいように思います。父もそのように考えたのかも知れません。
「東京物語」の弦楽五重奏曲をどのような形で公表すべきでしょうか…。もちろん世界初公開です。この作品を良い形で公表し、後世へ伝えていくことは、私にとっても大変大きなテーマとなりました。