劇団にんげん座公演『六区のあかり』とSKD
10月25日、26日、27日の3日間、浅草雷5656会館で上演された劇団にんげん座公演『六区のあかり』に、スタッフ及び演者として参加しました。
劇団にんげん座の主宰者飯田一雄先生が、小津作品及び小津映画音楽の大変な愛好家ということで、2016年のにんげん座公演にサイトウ・メモリアルアンサンブルとして、生演奏と劇中音楽でご協力させていただきました。それ以来、毎年何らかの形で劇団にんげん座公演に関わるようになりましたが、今回はついにコミックボーカルショーの歌手兼ショートコントの演者として、舞台へ出演することになりました。にんげん座は全くの素人でも舞台に立てるという、珍しいというか…無茶なことを平気で行う劇団なのです。
『六区のあかり』ではタイトルバックの他、劇中でも数ヶ所に小津映画音楽を使っていただきましたが、やはり今回の目玉は、SKD最後のトップスター春日宏美さんはじめ、元SKDメンバーが5名も出演し、歌とダンスを披露してくれたことでしょう。
つい先日、北千住の料亭でにんげん座公演の盛大な打ち上げパーティーが行われましたが、春日宏美さんや銀河京さんら元SKDの方たちとお話しする機会がありました。自分が、SKDの前身に当たるSSK(松竹少女歌劇団)で作曲と指揮を務めた吉澤博の親族であることを伝えると、とても親近感を持たれたようでした。
吉澤博は、昭和9年(1934年)にSSKへ作曲担当として入団しました。ちょうど、SSKが浅草公園六区の浅草松竹座から、新宿第一劇場へ拠点を移した頃ではないかと思います。その後、昭和12年(1937年)に浅草国際劇場がオープンし、翌昭和13年(1938年)には『東京踊り』が上演されており、吉澤は指揮者として国際劇場のステージ(オーケストラピット?)に立ったはずです。
吉澤は水の江瀧子(ターキー)やオリエ津阪とも親交があり、ターキーは渋谷の自宅へよく訪れていたそうです。SSKは戦時中に解散となり、吉澤は松竹大船撮影所の音楽部へ移籍となりましたが、終戦後にSKDとして再出発した後も、かつて吉澤が指導した牧野由多可など多くの作曲家が活躍しました。
今回、『六区のあかり』で採り上げた昭和歌謡のいくつかは、吉澤が指揮者としてレコーディングに携わったものと考えられます。吉澤が関わったであろう昭和歌謡の数々、そして父高順が作曲した小津映画音楽が流れる舞台に、自分が携わる不思議さを感じざるを得ません。
それにしても、今回の公演は過去のものと比較しても、格別に面白く大変愉快な日々でした。この年齢になって、新たなチャレンジに取り組める機会を与えていただき、飯田先生はじめ劇団の皆さんには感謝の気持ちで一杯です。