「回想録」の記憶間違い

以前から、父と小津監督が初めて対面した時期に疑問な点がありましたが、確認する手立てが見つからず放置していました。実は父が遺した記録によると、昭和27(1952)年夏頃と昭和28(1953)年夏頃の2種類が存在し、実に1年もの隔たりがあったのです。

まず、昭和27(1952)年と記載のある資料です。

月刊ぺんだこ「小津安二郎さんの映像と私の音楽」インタビュー記事/1985.2
落合…そう、そこをお聞きしたいんです。どういうきっかけか、斎藤さんおいくつでいらっしゃったんですか?
斎藤…私は昭和の年号と同じですから、二十七歳の時に知りあったということになります。

むかしの仲間 第7号「私と映画音楽」/1990.4
昭和27年夏の午後、いよいよ小津監督との初対面の日がやって来ました。 …(中略)… 早速、助監督に映画の台本を持って来させ、その場で直ぐに第一回の打合わせに入ったのです。その台本は芸術祭参加作品の《東京物語》でした。そして、音楽の入る場所と曲の注文〔フィーリングなど〕を全部終えると、撮影所近くの料亭に連れて行かれ、お酒をご馳走になりました。 …(中略)… 一年一作と云われただけあり、撮影が終わったのは翌年の初秋でした。途中、何度か打ち合わせと称する飲み会がありました。

生誕90年記念アルバム「小津安二郎メモリアル・アルバム」CD解説文/1993.9(日本クラウン株式会社)
昭和27年の初秋でした。以前知人から紹介された吉澤博さん(映画音楽指揮者)から小津安二郎監督から今度の新しい音楽監督を探して欲しいと頼まれたとの事で、「斎藤君やって見ないか」と言われ、先ず監督に合わせようと松竹大船撮影所に同行して貰い、小津監督に紹介されました。

次に、昭和28(1953)年と記載のある資料です。

「小津安二郎名作映画音楽集」LP解説文/1972.7(日本クラウン株式会社)
私が最初に小津さんに会ったのは昭和28年の夏でした。 …(中略)… 数か月して撮影が終り、最終的な音楽の打合わせが行われました。驚いたことに、音楽の指定は台本の段階でしたものと殆ど同じでした。小津監督は撮影の前からもうご自分の作品を完成しておられたのです。

生誕100年記念アルバム「小津安二郎映画音楽集」CD解説文/2003.9(日本クラウン株式会社)
私が最初に小津さんに会ったのは昭和28年の夏でした。(※以下、1972年発売のLP解説文がそのまま流用されています。)

「回想録」を公開するにあたり、母や叔父らの記憶なども参考にしつつ自分なりに調べた結果、これは昭和27(1952)年の初秋(夏の終わり頃)で間違いないだろうということに落ち着きました。

その後は、特別気にも留めませんでしたが、イベント等で紹介することがある箇所なので、何度も読んでいるうちに明らかな矛盾点が浮き彫りになりました。昭和27年の初秋(夏の終わり頃)ということは、まだ『お茶漬けの味』(1952/10/1)が公開される少し前であり、次回作の作曲家と面談する時期としては少々不自然です。

しかし、決定的と思われたのは次の一文でした。

むかしの仲間 第7号「私と映画音楽」/1990.4
早速、助監督に映画の台本を持って来させ、その場で直ぐに第一回の打合わせに入ったのです。その台本は芸術祭参加作品の《東京物語》でした。

「全日記 小津安二郎」から、台本に関する記事を以下に抜粋します。

P362 1953/2/4 東京物語のあらましのストウリー出来る
P375~P376 1953/3/25 熱海の宿よりラストまで一息に構成出来る
P387 1953/5/3 尾道の終まで書上げる

また、Wikipediaより引用します。

1953年2月から小津安二郎は野田高梧とともに、小津が脚本を書くために使用していた茅ヶ崎館で『東京物語』の構想を練りはじめ、4月8日から脚本執筆を行い、5月28日に脱稿した。

「全日記 小津安二郎」やWikipediaでも明らかな通り、昭和27(1952)年の初秋(夏の終わり頃)に『東京物語』の台本は存在していないので、台本を元にした音楽の打合わせは不可能でした。では、昭和28(1953)年の夏頃が正解だったのか?というと、こちらも有り得ないことでした。

ふたたび、Wikipediaより引用します。

ロケハン
小津は1953年6月24日から7月1日まで行われた尾道でのロケハン中、自動車は一切使わず、連日坂の多い尾道を歩き回り、浄土寺、福善寺など小津好みのロケ地を探し当てた他、志賀が若いころ住んだ志賀の旧居を見つけ出した。小津は尾道ロケハン後、東京でのロケハンをはさみ、熱海ロケハンの際に当地に住む志賀を訪ねて、尾道のロケハン報告を行っている。

ロケ
1953年8月12日から8月19日の尾道ロケに参加した主要俳優は、笠智衆、原節子、香川京子の3人だけであるが、当時、地方ロケは珍しく、撮影現場には見物人が殺到した。原節子が到着する時刻には尾道駅の入場券が3000枚売れた、朝3時からの浄土寺ロケでは狭い境内に2000人見物客がいたなど、当時の逸話は絶頂にのぼりつめて行く娯楽の王者たる映画の人気が、地方都市で如何なる形で表現されたかを伝える。

6月から8月まで撮影が行われ、9月から10月にかけてクランクアップ、オールラッシュ、試演会、レコーディング、ミックスなどが続きます。11月3日の公開までバタバタな過密スケジュールの最中、いきなり新人作曲家に音楽監督を任せるような無謀なことを、小津監督が行うとはとても考えられません。

従って、昭和28(1953)年の夏頃に監督との面談が行われた可能性も無さそうです。では一体いつ頃、父は小津監督とお会いしたのでしょうか?

何か手掛かりはないかと「全日記 小津安二郎」を読み返していたところ、大変な見落としに気が付きました。斎藤高順又は吉澤博が、どの時点から「全日記 小津安二郎」に登場するのかが鍵となります。吉沢(吉澤博)及び斎藤(斎藤高順)という名前が、初めて現れるのは次の箇所です。

P392 1953/6/11 吉沢と音楽打ち合せをなす
P394 1953/6/16 車で松坂屋うらの蓬莱屋にゆく のち上野公園を見る 不忍の池をめぐり車にて銀座に出て 山本 田代 斎藤と別れて厚田とアメリカン ファマシー サンにより東京駅より帰る

上記より判明したのは、昭和28(1953)年6月11日、父は吉澤博に連れられて松竹大船撮影所を訪れ、小津監督と初めてお会いしたということです。つまり、季節は初秋(晩夏)ではなく麦秋(初夏)であり、年は昭和28(1953)年であったのです。

そして、6月16日には厚田雄春(撮影)、山本浩三(助監督)、田代幸蔵(助監督)らと一緒に、上野や銀座のロケハンに同行したと考えられます。これならばスケジュール的にも無理がなく、「回想録」の記載内容とも整合性があります。

ようやく謎が解けました。「回想録」には他にもいくつか矛盾点がありますが、いずれも父の記憶違いによるものと言えるでしょう。父は日記の類いはほとんど遺しておらず、そのため正確性に欠ける情報しか公開できないことは誠に残念なことです。その点、小津監督は実に細かい記録を残しており、とても几帳面な性格の持ち主だったようです。

また、すでに病床にあった昭和38(1963)年4月16日の日記には、驚くべき事実が記載されていました。

P803 下段 高順夫妻他子供三人

この日私たち兄弟(兄、私、弟)は、両親と共に築地の国立がんセンターへ小津監督のお見舞いに訪れていたのです。つまり、私は生身の小津監督ご本人にお会いしていたのでした!残念ながら、全く憶えていませんが…。

また、小津監督は父と会う少し前に、黛敏郎とも会っていたことが分かりました。

P390 1953/6/1 この日帝国ホテルにて 黛 桂木の結婚式あり 招待されるも欠席す
P390 1953/6/2 五時より 木下恵介の〈日本の悲劇〉の試写をみる 野心作ならむも一向に感銘なく粗雑にして すの入りたる大根を噛むに似たり 奇にして凡作也
P390 1953/6/3 電車にて黛 桂木の夫婦に会ふ 鴛鴦(おしどり)むつまじく よく 一水を契るべし

『日本の悲劇』は桂木洋子が主演を務めましたが、桂木は『晩春』にも出演するなど松竹の人気女優でした。一方、黛敏郎はすでに木下恵介、中村登、大庭秀雄らの映画音楽を手掛けており、注目の若手作曲家でした。

小津監督は、『東京物語』の音楽に黛の起用を考えていたとしても不思議ではありません。しかし、数日後に面談した斎藤高順を音楽担当に抜擢し、結果的にその判断は誠に正しかったと言えるでしょう。

動画について

①ブルー・インパルス ②オーバー・ザ・ギャラクシー ③オンリー・ワン・アース ④輝く銀嶺 ⑤東京物語(吹奏楽アレンジ) ⑥彼岸花(吹奏楽アレンジ) ⑦秋刀魚の味(吹奏楽アレンジ)

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