『明日は来らず』と小津作品について
『東京物語』にインスパイアされた監督及び作品は数多く存在しますが、実は『東京物語』の誕生にも多大な影響を及ぼした映画がありました。それは、1937年(昭和12年)7月22日公開のアメリカ映画『明日は来らず』です。
キネマ旬報別冊(昭和39年2月号)に掲載された「『東京物語』の頃」という記事の中で、野田高梧は次のように述べていました。
たしか戦前だったと思うが、日比谷映画劇場で上映されたアメリカの保険会社の養老保険の宣伝映画に「明日は来らず」というのがあって、子供たちを頼りにしていた老夫婦が最後にわかれわかれになって、一人は都会へ、一人はカリフォルニアへゆくというような話だったのを、僕だけが見ていて、それもウロ覚えだったのだが、それがこのシナリオのヒントになったのだった。
上記によると、“僕だけが見ていて”とありますが、小津監督は1937年(昭和12年)9月24日から中国戦線へ出兵しており、1939年(昭和14年)7月13日に帰還するまで日本国内にはいないので、たしかにこの映画を観ていなかったのだと思います。
『東京物語』は1953年(昭和28年)11月3日の公開ですが、それ以前の小津作品にも明らかに『明日は来らず』から着想を得たと思われる作品があります。『戸田家の兄妹』と『麦秋』の2作品が該当しますが、『戸田家の兄妹』の方は池田忠雄との共同脚本であり、野田高梧でなかったことは興味深い点です。また、『東京暮色』にも『明日は来らず』をイメージさせる場面があり、この映画は多くの小津作品に影響を与えていたと言えそうです。
長年住み慣れた家が銀行に差し押さえられ、老夫婦は行き場所を失います。両親はやむを得ず、別々に子供たちの家へ仮住まいすることを承諾します。『戸田家の兄妹』では実業界の大物だった父が急死し、生前多額の負債を抱えていたことから土地家屋を手放します。行き場所を失った母と末娘は、子供たちの家で面倒を見てもらうことになります。
どちらの家族も5人兄弟(二男三女)で、家を失った親が子供たちを頼って身を寄せますが、徐々に冷たい扱いを受けるようになり、やがて身の置き場がなくなるという展開が実によく似ています。祖母が孫をかばうために小さな嘘をつき、それが原因となり娘からきつくなじられ、家にいられなくなってしまうエピソードも共通しています。
居場所を失った母は老人ホームへ追いやられますが、父の方は三女を頼ってカリフォルニアへと旅立ちます。『戸田家の兄妹』では、子供たちから邪魔にされた母と末娘は鵠沼の別荘に追いやられ、最後は二男と一緒に天津へ向かう決心をします。『麦秋』では、子供たちと離れて暮らすことを決めた両親は、大和で静かに余生を過ごす選択をします。
また、家族からは冷たい仕打ちを受けますが、雑貨屋の主人、カーディーラーの男、ホテルの支配人など他人から親切に扱われるところは、『東京物語』で紀子(原節子)の役柄に活かされているように思えますし、父と雑貨屋の主人との会話シーンは、周吉(笠智衆)と沼田(東野英治郎)が飲み屋で人生の悲哀について語り合うシーンと符号します。
老夫婦がニューヨークを訪れ、公園で人生を振り返るシーンは、『東京物語』と『麦秋』に見られる老夫婦が上野公園でしみじみと語り合うシーンの原形と言えるものです。映画の最後で、カリフォルニア行きの列車に乗る父と見送る母との別離のシーンは、『東京暮色』で上野から北海道へ旅立つ母(山田五十鈴)が、車窓から娘(原節子)の姿を探し求めるシーンと重なります。どちらも永遠の別れを暗示しており、哀しみに満ちた名シーンでした。
このように、『明日は来らず』が小津作品に多大な影響を与えたことはほぼ間違いありません。しかし、両者の根本的な違いは、小津作品では決して描かれることのなかった老夫婦の深い愛情表現ではないでしょうか。『明日は来らず』の主要なテーマは、老夫婦の甘く切ないラブストーリーとなっており、小津作品は家族愛に主眼が置かれ、それが崩壊していく侘しさを描いている点が大きく異なるように感じました。
『東京物語』と深い関りを持つ2作品『明日は来らず』と『みんな元気』は、いずれも心を打つ名作であり、是非とも多くの方にご覧いただきたい感動的な作品です。