『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』と陸軍戸山学校軍楽隊


朝日新聞の夕刊に父高順のことが出ている、と親切にも教えてくださった方がいました。それは、映画ジャーナリストの金原由佳さんが書いた『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』に関する映画評の中にありました。

該当箇所を抜粋して、以下にご紹介します。

露木のモデルを陸軍戸山学校軍楽隊から戦後、小津安二郎の映画音楽を手掛けた斎藤高順(たかのぶ)に見るのも、池田の思惑通りか。

とありました。金原さんは、池田暁監督の意図として、主人公露木のモデルは斎藤高順ではないかと解釈したようです。この見解に大変驚き、早速テアトル新宿で上映中の『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』を鑑賞してきました。

映画はかなりの衝撃作(笑劇作!)で、鑑賞後に少々頭が混乱し、映画館を出たあと街の景色が以前と少し変わったように感じたほどです。きまじめで規律正しさの中に潜む異常性を、ユーモアやブラックジョークを交えてシュールに描いた問題作です。しかし、私には池田監督が露木の人物像に、斎藤高順のイメージ(あるいは心理描写)を重ね合わせたとは思えませんでしたが、真相は分かりません。

本作は全編を固定カメラで撮影しており、セリフはノーアドリブ、出演者たちは棒読みのような抑揚のないトーンで会話し、歩くスピードや所作もロボットのように人間らしさに欠けています。これは、小津映画が不自然と受け取られがちな演出を、より一層大げさに表現している節が見受けられます。

池田監督は、カメラワークに対して小津安二郎監督の影響を指摘されると、

小津さんの映画は大好きで、よくそう言われますが、実は意識はあまりしていません。小津さんの映画は、世界中のいろんな監督に影響を与えているので、そういうのが、僕に“下ってきている”のかな、とは感じています。

と述べています。

タイトルにも含まれる「きまじめ」と「ぼんやり」というキーワードが、この映画の最も重要な肝となります。「川の向こうは、とてもコワイ。らしい。」というキャッチコピーが示すように、相手のことも、戦っている理由もよく分からず、ただ何となく規律正しく、言われるがままに戦争という“作業”をひたすら繰り返します。

全てが曖昧であやふやなのに、あまり疑問も抱かず、自分の頭で考えようともせず、せっせと何かの“作業”をこなすことで毎日が過ぎてしまう…。川向こうの敵とは一体誰なのでしょうか?川を海に置き換えれば、日本海、南シナ海、あるいはオホーツク海を隔てた某国、またはコロナ禍という曖昧であやふやな恐怖と言ってもよいかも知れません。

「きまじめ」で「ぼんやり」と言えば、陸軍戸山学校軍楽隊に所属していた頃の父高順はどうだったでしょうか?以下に、父の回顧録より抜粋します。

時は1945年(昭和20年)5月でした。3月10日の東京大空襲で牛込の戸山学校は全焼し、軍楽隊は焼け残った浅草橋の日本橋高等女学校の1階に仮住まいしていました。その頃、作曲をやっていた4人(私、芥川也寸志、奥村一、團伊玖磨)には、特別の任務として部隊歌や吹奏楽曲の作曲が命じられ、一人ずつピアノ付きの個室が与えられました。
曲が仕上がると気心の知れた隊員に写譜を頼むのですが、他の隊員が危険な任務をしている最中、個室でゆっくりタバコを吹かしながら写譜をする仕事の方を好むのは当然で、希望者が続出したことは言うまでもありません。しかし特に大勢は必要としないし、曲も早々とは仕上がらないので、選ばれた隊員は喜んで来てくれました。そんな状態だったので、当時の私はいつまでも軍楽隊での生活を続けたいとさえ思っていたのです。
ところが、それからわずか3ヶ月後の8月15日に戦争は終わり、同時に軍楽隊も解散となったのです。当時、私は音楽学校に戻れる喜びなどは全くなく、快適だった軍楽隊の生活から放り出されたことを悲しみました。

戦時下の軍楽隊を扱った映画に、『野戦軍楽隊』(1944年松竹)や『血と砂』(1965年東宝)などがありますが、いずれの作品も戦場における軍楽隊の凄惨な様子が描写されていました。悪名高いインパール作戦に従軍した軍楽隊員もおり、ニューギニアやフィリピン、ビルマ戦線などに派遣された軍楽隊は、ほとんどが全滅または潰滅状態だったと言われています。

一方、戦地へ派遣されることもなく、ピアノ付きの個室でゆったり煙草を吹かしながら作曲をしていた父は、「いつまでも軍楽隊での生活を続けたい…」「快適だった軍楽隊の生活から放り出されたことを悲しみました。」と当時を述懐しています。これは少々問題発言かも知れませんが、戦時下の父は「きまじめ」で「ぼんやり」した兵隊だったのです。

太平洋戦争は、原爆投下による大量殺戮で終わりましたが、『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』は“新兵器”による大爆発でエンディングを迎えます。本当の敵は、川の向こうや海の向こうにいるあやふやな存在ではなく、「きまじめ」で「ぼんやり」している自分自身の内面に潜んでいるのではないか…そんなことを考えさせられる、ちょっと可笑しいけれど怖い映画でした。

そして、「きまじめ」で「ぼんやり」した兵隊という点においては、金原由佳さんのご指摘通り、露木と斎藤高順は見事に一致していると言えるでしょう。

sight-and-art.org

動画について

①ブルー・インパルス ②オーバー・ザ・ギャラクシー ③オンリー・ワン・アース ④輝く銀嶺 ⑤東京物語(吹奏楽アレンジ) ⑥彼岸花(吹奏楽アレンジ) ⑦秋刀魚の味(吹奏楽アレンジ)

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