都立戸山公園(陸軍戸山学校軍楽隊址)
都立戸山公園を初めて訪れました。戸山公園は、明治通りを挟んで両側にありますが、陸軍戸山学校址や箱根山は東側(右)の方にありました。
戸山公園には終戦前まで陸軍戸山学校があり、父高順は軍楽隊に所属していました。父は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)に在学したまま、陸軍戸山学校軍楽隊へ配属となり、東京大空襲、敗戦を迎えます。ここで、芥川也寸志や團伊玖磨らと共に、吹奏楽曲の作編曲を経験しました。
2024年に開催予定の斎藤高順生誕100周年記念イベントでは、父たちが体験した陸軍戸山学校軍楽隊のことをイラストレーションドラマにして、吹奏楽作品の生演奏と併せてご紹介できるような音楽イベントを企画中です。
陸軍戸山学校記念碑
この地は和田戸という武士の館の跡で源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ後代和田戸山と呼ばれた寛文年間尾張徳川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された明治六年その地に兵学寮戸山出張所が設けられ翌七年陸軍戸山学校と改称されて以来約七十年にわたって軍事の研究教育が行なわれ国軍精強の基を培ったばかりでなく国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地であるこの度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたってこの記念碑を建てて東京都に贈る
昭和四十二年十一月 元陸軍戸山学校縁故有志一同
野外演奏場址~箱根山石碑
箱根山地区の歴史
この地区は、その昔 源頼朝の武将 和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。
寛文八年(一六六八)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約十三万六千余坪(約四十四万八千八百余㎡)に及び、「戸山荘」と呼ばれるようになった。
この「戸山荘」は、寛文九年(一六六九)に工事を始め、天和(一六八一~一六八三)・貞享(一六八四~一六八七)の時代を経て元禄年間(一六八八~一七〇三)に完成した廻遊式築山泉水庭である。
庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した二十五の景勝地が造られていた。
なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも東海道五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
その後、一時荒廃したが、寛政年間(一七八九~一八〇〇)の初め第十一代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園地は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。
安政年間(一八五四~一八五九)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(一八六八)を迎えた。
明治七年(一八七四)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一部が昭和二十九年から今日の公園となった。
陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。
平成二年三月公園整備を記念して 東京都
箱根山登山口~山頂