斎藤高順が見た人間小津安二郎
小津監督と斎藤高順にはいくつかの共通点がありました。二人とも東京深川の出身だったこと、若い頃に代用教員の経験があったこと、誕生日が近かったこと(小津12月12日、斎藤12月8日)などです。ちなみに、小津監督が最も寵愛した俳優佐田啓二の誕生日は12月9日でした。そんなちょっとしたことが、二人の距離を近しいものにした要因の一つだったのかも知れません。
斎藤の証言によると、小津監督はすでに偉大な映画監督であったにも関わらず、少しも偉ぶったところがなく、若輩者の斎藤に対しても、同じ目線で対等に接していたようです。宴席では、年長者である監督自らが率先して道化役を演じ、若いスタッフや俳優連中の緊張を解きほぐし、常に盛り上げ役に徹するなどの気遣いを見せていました。近頃ではすっかり廃れてしまいましたが、いわゆる“飲みニケーション”の達人であったのだろうと思われます。斎藤の回想禄より、小津監督の優しさを窺わせる出来事をご紹介します。
『東京物語』のダビングの時点で、ひとつの問題が生じました。
それは、東山千栄子さんが戦死した次男の嫁、原節子さんのアパートを訪れるシーンの音楽をめぐって起きたのです。
私はこのシーンを映画全体のひとつのヤマ場と感じましたから、特にシーンとピッタリ合う品格のあるものをと強く意識して音楽を付けました。
ところが、小津監督は「この音楽はシーンと合い過ぎて、映画全体のバランスが崩れるから、ヴォリュームを絞ってほんの小さく入れることにしよう。」と言うのです。
私はその曲の出来ばえに自信がありましたから、とてもガッカリしました。
けれども、そのあと小津監督はこう言ってくれたのです。
「ぼくは、登場人物の感情や役者の表現を助けるための音楽を決して希望しないのです。」
また、こういう風にも言いました。
「いくら、画面に悲しい気持ちの登場人物が現れていても、その時、空は青空で陽が燦々と照り輝いていることもあるでしょう。これと同じで、ぼくの映画のための音楽は、何が起ころうといつもお天気のいい音楽であって欲しいのです。」
こうした言葉によって、私は小津監督の映画音楽観をしっかりと理解できたように思いました。
それ以来、私は小津監督のために、物語の展開とよく合う感情の入った音楽を一切書いていないつもりです。
上記のシーンに使われた「夜想曲」は、明らかに小津監督の意向に添うものではなかったのです。普通ならばカットされるか、別な曲に作り直しを命じられてもおかしくなかったでしょう。しかし、落胆する若い作曲家に対し、監督はボリュームを絞って使うことを提案しました。それでも納得できずにいる斎藤に、監督は自分の映画音楽観について丁寧に説明を加え、斎藤を失望させないように理解を促したのです。
他の監督ならば、「黙って言う通りにしろ!」と一喝しておしまいだったかも知れません。小津監督は飲みニケーションの達人であるばかりではなく、人心掌握術の達人でもあったのです。
それ以降、斎藤は小津監督にとって良きパートナーへと急成長していったのだと思います。また、小津監督は自分のことを「小津先生」や「小津監督」ではなく、「小津さん」と呼ばせていたようでもあります。斎藤は、小津監督との思い出を語る際に、いつも「小津さん、小津さん」と、まるで近所のおじさんとでも接するかのように親しみを込めて名前を呼んでいました。
小津監督から飲みニケーションと人心掌握術の薫陶を受けた斎藤は、後に航空自衛隊音楽隊長、警視庁音楽隊長などの要職に就いたとき、その経験が大いに役立ったようです。新年会では若い隊員たちを自宅に招き入れ、昼間から大宴会を催したものでした。宴席では年長者が率先して道化役を演じ、場の空気を和らげること、飲みの席では基本無礼講であること等々…、小津組の宴会の流儀を踏襲したのだと思います。そして、生涯仕事と酒を愛し続けたところも、小津監督の影響によるところが大きかったと言えるでしょう。