小津安二郎が愛した心を癒す音楽コンサート(全脚本)

小津安二郎が愛した心を癒す音楽コンサート

《セットリスト》
秋日和♪(公開60周年)
ご挨拶
深川で過ごした少年時代、音楽との出会い ~ 早春♪
戦争の時代、陸軍戸山学校軍楽隊の頃 ~ 浮草♪
敗戦、作曲家としての旅立ち ~ 小津安二郎が愛した心を癒す音楽特集♪
「劇中で使用した音楽」より すみれの花咲く頃、アニー・ローリー
「小津安二郎が愛した音楽CD」より 花売り娘、巴里の屋根の下
小津監督との運命的な出会い ~ 東京物語♪
画面から聴こえない名曲 ~ 夜想曲♪
小津監督が好んだお天気のいい音楽とは ~ サセレシア♪
小津監督と共に歩んだ10年、そして永遠の別れ ~ 秋刀魚の味♪
メンバー紹介
クリスマスメドレー♪



深川で過ごした少年時代、音楽との出会い

私は、1924年(大正13年)、東京は深川の生まれです。男ばかり、3人兄弟の真ん中でした。実家は、深川東陽町で酒屋を営んでいました。

実家のあった地域は花柳界と呼ばれ、深川の料亭や料理茶屋が立ち並ぶ、下町情緒の漂う街並みでした。近所には巽芸者が出入りする高級料亭があり、三味線や小唄が漏れ聞こえてくるような風情のある環境でした。

家業の酒屋は繁盛していて、当時としては裕福な家庭でしたが、花柳界の様な地域に暮らしていることが恥ずかしくて、学校からの帰り道は、わざと遠回りをして、友達に住んでいる場所を知られないようにしていました。

私は、子供の頃から運動音痴で、野球のルールさえ知りませんでしたが、そんな私に音楽の才能があると見込んでくれたのは、日大一中時代の恩師、音楽の斎藤太計雄先生でした。見よう見まねで始めたピアノでしたが、斎藤先生は私が専門家の先生について、本格的に音楽の勉強をすることを、父に勧めてくれたのです。

しかし、明治生まれの頑固者の父は、「音楽など女子供のやるものだ!」と言って猛反対しました。父の意見はもっともで、私が東陽小学校在学中には、関東軍が中国で軍事行動を開始し、満州の建国を宣言するなど、世の中に不穏な空気が流れ始めていた頃でした。男子たるもの、質実剛健でなくてはならぬ、というのが父の考えでした。

私はすっかり落胆し、食欲もなくすほど元気を失ってしまいましたが、そんな様子を見て、母はひどく心を痛め、とうとう頑固者の父を説得してくれたのです。しぶしぶ了承した父でしたが、私が並々ならぬ熱意で、音楽に取り組む姿を見て、やがて理解を示してくれるようになりました。しかも、レッスン料の高い、有名な作曲家の先生に通わせてくれて、音楽の勉強に励むことができました。

また、戦争中の物のない頃に、高価なドイツ製スタインウェイのグランドピアノを買ってくれたのです。ピアノは戦災にあう前、長野の疎開先で大切に保管してくれるなど、父からは大変な恩を受けました。

それなのに、どうしても価値観が合わず、亡くなるまで親しく酒を酌み交わすこともありませんでした。今思うと、そのことが大変悔やまれますが、今さらどうにもならず、とても残念に思っています。
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戦争の時代、陸軍戸山学校軍楽隊の頃

上野の東京音楽学校の作曲科に入学したのは、戦争中の1943年(昭和18年)でした。同期に、芥川也寸志、奥村一、依田光正、一級上には團伊玖磨がいました。

音楽学校の2年に在学中の1944年(昭和19年)には、当時大東亜戦争といわれた第2次世界大戦はますます激しくなりました。学生の特権であった、徴兵猶予も廃止され、私の先輩たちも、次々に戦地へ送られていきました。将来を嘱望された、作曲科の優秀な学生からも、たくさんの戦死者が出ました。

それを憂慮した、乗杉嘉寿(よしひさ)校長と、陸軍戸山学校軍楽隊の山口常光隊長が、話し合いの機会を設け、音楽学校の生徒で、徴兵適齢者は軍楽隊に入れて、音楽で国のために尽くしてもらおう、ということに決まりました。私と芥川、奥村、團は作曲専攻でしたが、軍楽隊では私と芥川はサキソフォーン、奥村はオーボエとバズーン、團は打楽器を与えられました。

軍楽隊の任務とは、戦地で心身共に傷つき、疲弊した兵士に癒やしと安らぎを与えることでした。また、戦場となった現地の人たちには、音楽を通じて日本の文化芸術に親しんでもらい、慰労し励ますことも、その任務に含まれていたのです。

軍楽隊の音楽は、現地住民を支配したり、蹂躙するための道具であったわけではなく、隊員の多くは、故郷の家族を思い、音楽を愛する普通の若者でした。しかし、インパール作戦に従軍した軍楽隊員もおり、ニューギニア、フィリピン、ビルマ戦線などに派遣された軍楽隊は、ほとんどが全滅または潰滅状態だったのです。その実態は、あまり語られることもなく、彼らの最期ははかなく悲しいものでした。

1945年(昭和20年)3月10日の午前0時7分、アメリカ軍のB29爆撃機300機が、首都圏上空に飛来しました。爆撃地の第一目標は、家族と共に暮らした深川だったのです。

アメリカ軍の爆撃は、これまでにはない大規模なものでした。九死に一生を得た私は、翌朝になって日本橋方面から実家のある深川の方へと向かいましたが、目の前に広がる凄惨な光景に言葉を失いました。永代橋を渡りきると、あたり一面が焼け野原で、見慣れた街並みは跡形もなく消滅していたのです。

門前仲町の交差点付近は、黒焦げになった遺体がいたるところに散乱しており、深川不動尊の本堂脇の広場には、焼死体が山のように積み上げられていたのです。この東京大空襲により、深川地区は一夜にして壊滅状態となり、被害は都心部一帯に及び、牛込にあった陸軍戸山学校も全焼しました。
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敗戦、作曲家としての旅立ち

時は1945年(昭和20年)の5月でした。3月10日の東京大空襲で、牛込の陸軍戸山学校は全焼し、軍楽隊は焼け残った、浅草橋の日本橋高等女学校の1階に仮住まいしていました。

その頃、作曲をやっていた私、芥川、奥村、團の4名には、特別の任務として、部隊歌や吹奏楽曲の作曲が命じられ、一人ずつピアノ付きの個室が与えられました。ところが、それからわずか3ヶ月後の8月15日に戦争は終わり、同時に軍楽隊も解散となったのです。

敗戦のショックで茫然となった私たちは、軍楽隊に残っていた樽酒を、全部自由に飲ませてもらいました。粗末なアルミニュームの食器で、冷酒をガブガブと飲み、結局何杯飲んだのか覚えていません。そして、別れの盃を交わした隊員たちは、一人また一人、廃墟となった東京の町へ消えて行きました。

深川にあった実家は全焼してしまいましたが、幸い両親は長野に疎開していて無事でした。戦後まもなく、東京にひとりで暮らす私のもとへ、母は疎開先の長野から真っ先にやって来ました。

母は、よほど私の安否を心配していたらしく、顔を見るなり涙ぐみ、「うん、うん…」と言葉にもならず、ただうなずくだけでした。そんな母の姿を見て、私は必ず作曲家になって両親に親孝行をしたい、と心に誓ったのでした。

1947年(昭和22年)の3月に、東京音楽学校を卒業しましたが、続けて研究科に残してもらい、そして1949年(昭和24年)3月には、研究科を修了しました。当時は、まだテレビもない頃で、ラジオも民放はなく、NHKしかありませんでした。

その頃、作曲家の仕事で最大の収入源は、映画音楽を担当することでしたが、早坂文雄さんや、伊福部昭さんなどが活躍中で、私には夢のまた夢のようなことでした。また、その頃から民間放送局が次々と誕生し、劇伴の仕事がだんだんと増えてきました。

徹夜で作曲すると、泊まり込みの写譜屋が、次々にパート譜を作り、夜明けとともにそれを持って、数ヶ所の放送局へ出向き、かけ持ちで指揮棒を振る日々が続いたりしました。

研究科を卒業したばかりの頃、ピアノと指揮法を指導していただいた金子登先生から、松竹大船撮影所のお偉方と、親しい方を紹介していただきました。その方の紹介状を持って、大船撮影所へ伺ったところ、音楽部に連れて行かれ、作曲や指揮の先生に会わせていただきました。

しかし、そう簡単には映画の仕事は廻ってこず、その後はラジオの仕事の方が大変忙しくなってしまったのです。そして、松竹へお伺いしたことさえ忘れかけていた頃、突然大船撮影所音楽部の吉澤博さんから、私に連絡が入りました。この連絡が、その後の私の運命を、大きく変えることになったのです。
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小津監督との運命的な出会い

1953年(昭和28年)、6月頃のことです。私は松竹大船撮影所に呼ばれました。私の目の前にいる、岩のように大きな人物こそ、当時の映画関係者の間では、神様のような存在、と言われていた小津安二郎監督、その人でした。

当時、松竹大船撮影所で、音楽部門を仕切っていた吉澤博さんの推薦で、私は初めて、小津監督とお会いすることになったのです。大変厳しい監督であるという噂は、私の耳にも届いておりましたので、夢のように思う反面、恐ろしさで身も縮むような、複雑な気持ちでした。

緊張のあまり、口もきけずに頭を下げていると、小津監督は開口一番「今までに、どんな映画音楽を作曲しましたか?」と言われました。私は、「まだ一度もやったことがありません。先生のお仕事が初めてです。」と答えました。すると、監督は一瞬驚いたような表情を見せましたが、すぐにニコニコ笑いながら、「そいつはいいや。」とおっしゃいました。

小津監督は新しい役者の起用を決める際に、呼び出して他愛のない日常会話を交わす機会を設けたそうです。これは「首実検」と言われ、さりげなく相手の人間性を観察するために行われたものでした。どうやら、私もその「首実検」にかけられたようです。

実は、吉澤さんの推薦で私の起用はほぼ決まっており、一応本人と顔合わせを行うために呼び出されたのでした。吉澤さんは、1908年(明治41年)生まれで小津監督とは年齢も近く、大船撮影所野球部のチームメイトで、共にアンチ巨人、お二人とも大のグルメということで日頃から大変仲が良く、小津監督は音楽に関しては、吉澤さんの意見を全面的に採り入れていました。

採用が決まり、ほっと胸をなでおろしていると、その場ですぐに第一回目の打ち合わせに入ったのです。しかし、音楽の具体的性格や内容については、そのときは何の要求もありませんでした。そして、撮影所近くの料亭に連れて行かれ、お酒をご馳走になりました。その翌週には、私は初めて小津組のロケハンに同行し、実際に撮影現場へと赴いたのです。
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画面から聴こえない名曲

作曲家は、映画音楽の録音日の1週間から10日くらい前までに、スコアを完成させておき、それを小津監督の前で、一旦演奏披露するのです。これが御前演奏会と言われ、小津監督は作曲家に御前演奏をさせる特権を、松竹大船撮影所で、ただ一人持っていました。もし、そこで監督が気に入らなければ、作曲家は録音当日までに、曲の書き直しを命じられるのです。

ついに、『東京物語』の御前演奏会の当日となりました。スタッフ連中は、極度の緊張状態にあったことは、いうまでもありません。トップタイトルの音楽が終わっても、小津監督は一言もおっしゃいません。それから、次々と吉澤さんの指揮で曲が演奏され、とうとうラストシーンの音楽も終わりました。

恐る恐る監督の方に顔を向けると、一言、「今度の音楽は、なかなか良いね。」と言われたのです。続けて監督は、「いいね、音楽みんないいからね、この通りでやってください。」と褒めてくれまして、NGはひとつもありませんでした。スタッフの皆さんは大喜びでしたが、なんでも、今までにはないことだそうです。もう嬉しくて、私は録音の日まで、家で酒を飲んで寝てました。

ところが、ダビングの時点で、ひとつの問題が生じました。それは、東山千栄子さんが、戦死した次男の嫁、原節子さんのアパートへ訪れるシーンの音楽をめぐって起きたのです。

私は、このシーンを映画全体のひとつのヤマ場と感じましたから、特にシーンとピッタリ合う品格のあるものを、と強く意識して音楽を書き、これに「夜想曲」というタイトルを付けました。

ところが、小津監督は「この音楽はシーンと合い過ぎて、映画全体のバランスが崩れる。悲しい曲やきれいな曲では、場面と相殺になってしまう。」と言いました。

つまり、NGということなのです。しかし、曲の出来映えに絶対の自信があった私は、天下の小津監督に生意気にも意見をしたのです。いろいろ迷った末に、小津監督は私の意見を受け入れてくださいました。

原節子さんと東山千栄子さんが、しみじみと語り合う感動的なシーンのバックに、感情に訴えるような、ヴァイオリンの美しい旋律が流れ、映像を大いに盛り上げるはずでした。ところが…。

音楽がほとんど聞こえません。小津監督は、音楽のボリュームを思い切り下げて、聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな音量にしてしまったのです。私は、その曲の出来ばえに自信がありましたから、とてもガッカリしました。けれども、落胆した私の様子を見て、小津監督はこう言ってくれたのです。

「ぼくは、登場人物の感情や役者の表現を助けるための音楽を、決して希望しないのです。」また、こういう風にも仰いました。「いくら、画面に悲しい気持ちの登場人物が現れていても、その時、空は青空で陽が燦々と照り輝いていることもあるでしょう。これと同じで、ぼくの映画のための音楽は、何が起ころうと、いつもお天気のいい音楽であって欲しいのです。」こうした言葉によって、私は小津監督の映画音楽観を、しっかりと理解できたように思いました。
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小津監督が好んだ「お天気のいい音楽」とは

悲しい場面には、悲しげな曲ではなく、陽気な音楽がどこからともなく、聞こえてくるような設定にしたい、と小津監督は希望しました。それは、『早春』で池部良さんが、病気の同僚増田順二さんを見舞うシーン、増田さんの葬式に、池部さんが弔問に訪れるシーン、この二つの悲しい場面に付ける音楽について、小津監督が要求したことでした。

「夜想曲」の一件がありましたから、どうしたら良いのか悩んでいると、小津監督は「こんな曲でたのむよ。」と言って、「サ・セ・パリ」と「ヴァレンシア」のSP盤を、私に貸してくださいました。

早速、両方の曲を調べたところ、8分の6拍子で変ロ長調、要所要所に共通する音が使われていることが分かりました。そこで、拍子は8分の6とし、共通する音を活かして、それを軸に自由な発想で作曲したところ、「サ・セ・パリ」にも「ヴァレンシア」にも似たようであり、でも少し違うような、面白い曲が完成しました。

この曲は、小津監督にもスタッフの皆さんにも大変好評でした。こうして、「サセレシア」は「お天気のいい音楽」を象徴する作品となり、小津監督にとって、最もお気に入りの一曲となりました。では、「サセレシア」というタイトルは、一体どこから来たのでしょうか?

「サセレシア」とは、サ・セ・パリのサセと、ヴァレンシアのレシアを繋げただけの、いわば小津監督のちょっとした遊び心から生まれた、ジョークのようなタイトルだったのです。

それでは、「サセレシア」の元となったとされる、「サ・セ・パリ」と「ヴァレンシア」、そして「サセレシア」を聴き比べてみましょう。
まず「サ・セ・パリ」 《音源》
続いて「ヴァレンシア」 《音源》
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小津監督と共に歩んだ10年、そして永遠の別れ

小津監督の印象については、怖い人だと言う方もおりましたが、私には優しい人としか思われませんでした。仕事場では、とても厳しい方でしたが、少しも辛いと思う事はありませんでしたし、普段もよく飲みに行こうと誘われました。

撮影は、だいたい夕方5時頃には終わり、そのあとは決まって横浜あたりに出て、お酒を御馳走になりました。いろいろな雑談を重ねていくうちに、お互いの気心も知れるようになり、時には、私も浅い経験から割り出した、幼稚な意見などを吐くようになりましたが、小津監督はそれらを一つ一つ、やさしく聞き入れて下さいました。

また、カラー1作目の『彼岸花』の中で、山本富士子さん扮する旅館の娘が、佐分利信さんのお宅へ訪問するシーンがありました。あの時、山本さんが持っていた赤い風呂敷は、私たち夫婦が結婚した時の、引き出物に使ったものなんです。そういうところなど、本当に遊び心のある方でした。

小津監督は、1963年(昭和38年)の春、築地の国立がんセンターに入院されました。そこへお見舞いに伺ったのが、お別れとなってしまいました。

個室に入っていらして、佐田啓二さんが付き添っていましたが、私が行くと病室のまわりが、ずいぶん賑やかなんです。どうしてなのかな、と思って病室に入ってみると、原節子さんと司葉子さんが、お見舞いに来ていたんです。大勢の看護婦さんたちが、二人が病室から出てくるのを廊下で待っていたんですね。

小津監督は、くびにできた癌のため、相当な痛みがあったはずなのに、私が訪ねると、ベッドの上に身体を起こして、「斎藤君、よく来たね。」と歓迎してくれ、次のようにおっしゃいました。「斎藤君、ぼくの映画のために作曲した楽譜は、大事にとっておきなさいよ。きっとまた、役に立つことがあるからね。」と言われたのです。

小津監督は、本当に私の音楽を評価してくれていたんだ…ということを実感し、胸が熱くなったことを覚えています。あとは、何を話したのか思い出せません。

私は、1962年(昭和37年)の1月に母を、そして翌年の2月には父を亡くしました。私の映画音楽を誰よりも楽しみにし、応援してくれた両親を相次いで失い、落胆していた私にとって、さらに追い打ちをかけたのが小津監督との別れでした。小津監督が亡くなられたのは、父を亡くしたのと同じ年、1963年(昭和38年)12月12日、60歳の誕生日の日でした。

『東京物語』から『秋刀魚の味』まで、無我夢中で走り続けた10年でした。その間に、私は結婚し、世田谷に家を建て、疎開先の長野から両親を呼び寄せ、3人の子の父親となりましたが、自分の中でひとつの区切りがつきました。小津監督との別れは、映画音楽との決別でもあったのです。私と映画音楽との関わりは、こうして終わりを告げました。

最後に、佐田啓二さんが小津映画音楽に捧げた言葉をご紹介します。

「小津先生の人生は美しかった。
 作品はもちろん美しかった。
 美しい画面には、美しい音楽があったからだ。」
佐田啓二

最後までご清聴、誠に有り難うございました。
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sight-and-art.org

動画について

①ブルー・インパルス ②オーバー・ザ・ギャラクシー ③オンリー・ワン・アース ④輝く銀嶺 ⑤東京物語(吹奏楽アレンジ) ⑥彼岸花(吹奏楽アレンジ) ⑦秋刀魚の味(吹奏楽アレンジ)

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