小津と宝塚歌劇団
小津監督は「秋刀魚の味のポルカ」を大変気に入り、自分が詞を書くから宝塚の寿美花代あたりに歌わせてレコーディングしようと言われたそうです。当時、斎藤高順はあまり本気にはしていなかったようですが、小津監督は宝塚歌劇団とも親交があり、かなり具体的な話だったのかも知れません。
小津監督は「秋刀魚の味」を撮り終えたあと、斎藤に「次回作もこのポルカで行こう」と言ったそうですから、もし「大根と人参」が完成していたら、監督が書いた歌詞の付いた「秋刀魚の味のポルカ」が劇中で使われた可能性があります。
松竹歌劇団(SKD)ではなく宝塚歌劇団がご贔屓だったところなど、いかにも小津監督らしさを感じますが、「小早川家の秋」撮影の合間には何度も宝塚の舞台へ通っており、歌劇の演出を手掛けてみたいとさえ言っていたとのことです。以下に『小津安二郎 ―人と仕事―』より、小津監督と宝塚歌劇団との交流について記した文章をご紹介します。
宝塚撮影所から武庫川の橋を渡って宿の「門樋」へ右折する角に、ヨシズで日覆いなどした小さな八百屋があった。
夏だからトマトや鬼胡瓜に混じって西瓜が積んである。
仕事帰りの小津はそこでその西瓜を全部買って宝塚歌劇の楽屋へ届けさせる。
必ず足を留めて店を覗き込み、買って届けさせた。
小津はすでに歌劇の娘たちと仲良しになっていたので、西瓜を貰った彼女たちもよく宿へ遊びに来た。
一緒に飲んで唱って、その時の演し物の踊りの一部を習ってドタドタと踊り、ご機嫌であった。
歌劇の演出をしてみたいと言ったこともあり、舞台はよく見に行っていた。
しかし小津は自分では西瓜を食べなかった。
「ありァ車夫馬丁の食うもンだ」などと言ったが、柿以外の果物は殆んど食べなかった。
生野菜も食べない。
しぼったレモン汁を時々飲んでいた。
八百屋の店先に、来る日も来る日も西瓜がある。
小津ははてしない仇敵に対面するように「それを全部くれ。そして楽屋へ届けてくれ」と言った。
『小津安二郎 ―人と仕事―』より
宝塚・門樋旅館で天津乙女・寿美花代・原節子らと(昭和36年9月頃)
小津監督がシャンソンなどヨーロッパの音楽にも精通していた理由は、若い頃から宝塚歌劇団の舞台をご覧になっていたからかも知れません。宴会では「モン・パリ」や「すみれの花咲く頃」を、村上茂子さんのアコーディオン伴奏付きで歌ったそうです。