小津安二郎と子供
小津監督は生涯独身を通し、私生活では長い間母との二人暮らしでした。一方、小津映画は大家族を舞台としたものが多く、必然的に子供が登場する作品も沢山存在します。
小津監督は子役の扱いに定評があり、プライベートでも親戚や知人の子供をとても可愛がっていたそうです。中でも、佐田啓二の子供達(中井貴惠、貴一)を、実の孫のように溺愛していた話はよく知られています。
『突貫小僧』を演じた青木富夫は、小津監督との思い出を次の様に語っています。
小津監督との出会いは六歳の時です。当時、私の母が横浜でスナックをやっていて、大船撮影所の人がよく来ていました。その中の一人が、「子供がこんなところでウロチョロしていてはよくない、撮影所に遊びに来い」と言ってくれまして、撮影所が遊び場所みたいになりました。ある日、池で遊んでいると、「あぶないぞ!」と叱られた。「いやなじじいが怒りやがって」と思ったんですが、それが小津先生だったんです。体が大きくて、お相撲さんみたいな感じでした。(中略)国立がんセンターに見舞いに行った時、「兄と弟(青木放屁。『長屋紳士録』に出演)を子役にしたのはおれだけだが、二人ともロクなものに育たなかった」なんて言っていましたが、勝手に子役にしておいて、無責任もいいところですよ。(笑)酒のお燗番をさせられて、熱いのぬるいのと、文句を言われたこともありますけれど、先生とのつきあいは面白かった。なにしろ、ぼくにとっては「偉い先生」ではなく、「優しいオジさん」でしたからね。(『小津安二郎 新発見』より引用)
斎藤高順も、小津監督同様に子供好きでした。私生活では、5人(4男1女)の子を持つ家庭的な父親でもあったのです。私が小学生の頃は、3人以上兄弟がいる家庭は普通でした。
第1次ベビーブーム(1947年から49年)の時代、日本の出生率は4.3人程だったそうです。ちょうど斎藤が作曲家を志し、NHKラジオの子供向け番組の音楽を作曲するようになった時期(1949年から52年頃)とも重なります。世の中に子供が増え、子供向けの商品や子供を対象としたラジオ番組や学校放送が続々に登場した時代でした。音楽のジャンルとして、童謡が大衆の大きな支持を得ていた頃でもあったのです。
当時、童謡はNHKラジオでもしばしば採り上げられ、学校の先生や幼い子を持つ両親からも歓迎されました。その頃、斎藤は童謡を書き始め、晩年に至るまで数多くの作品を遺しました。
つい先頃、日本童謡協会副会長の宮中雲子氏が出版した『夢を描いて 宮中雲子の詩による童謡曲集』に、斎藤の作品が3曲収録されています。
また、同じく日本童謡協会会員の柏木隆雄氏の『かんさつ日記』という詩集にも斎藤の作品が3曲含まれていました。
「ひとは斎藤を非常に穏当な作曲家と捉えているかもしれない。(中略)ある意味では幾つもの顔を持っていた音楽家であることがわかる。」とピアニストの花岡千春氏が指摘したように、斎藤は映画音楽、吹奏楽など、ジャンルの異なる作品を数多く遺しましたが、童謡作曲家としての顔も併せ持っていたのです。
ピアノ曲、歌曲と並んで、童謡にも優れた作品が存在していることが分かりました。今後、子供向けに書かれた童謡作品の復刻にも力を入れていきたいと思います。
余談ですが、私も父に連れられて病床の小津監督を見舞っていたことが判明しました。「小津安二郎 全日記」に記載がありました。小津監督から何か声を掛けられたかも知れませんが、まるで記憶にありません。実に残念なことです…。