日本映画音楽界の父 吉澤博
先日、吉澤博氏のご遺族にお会いすることができました。
吉澤氏と私の関係は、私の母が吉澤氏の姉の娘(姪)に当たる親類です。
両親が亡くなってからは、親類とも疎遠になってしまいました。
吉澤氏には娘さんとお孫さんがおりましたが、すっかりご無沙汰していました。
久しぶりにお二人と会って、吉澤氏のことを色々お聞きすることができました。
娘さんが吉澤氏に関する資料をお持ちだったので、その一部を以下に転載します。
吉澤 博 (映画音楽指揮者、作曲家)
明治41年(1908年)2月25日、茨城県水戸市出身。
武蔵野音楽学校(武蔵野音楽大学)バイオリン科(昭和7年)卒、生家は楽器店を営む。
旧制水戸中学から武蔵野音楽学校(武蔵野音楽大学)に進み、バイオリンを専攻。
昭和9年松竹歌劇団作曲部に入り、20年10月松竹大船撮影所に転じて音楽監督に就任。
吉村公三郎監督「嫉妬」「真昼の円舞曲」、大庭秀雄監督「命美わし」、渋谷実監督「本日休診」「現代人」などで音楽を担当し(渋谷監督作品は奥村一と共作)、25年には大庭監督「帰郷」で毎日映画コンクール音楽賞を受賞した(実質は黛敏郎が大部分を作曲)。映画音楽の天才的指揮者として名高く、計算尺を片手に映画の尺数とテンポを計算し、伸ばしたり縮めたりしながらピ夕リと映像に合わせて次々と録音を済ませていく名人芸から“合わせのヨッちゃん”、“合わせ魔”などの異名を取った。
また黛敏郎、斎藤高順、鏑木創、小杉太一郎、池野成、原田甫、三木稔、松村禎三、真鍋理一郎、山本直純といった若き作曲家たちを親身になって育て、それぞれの適性を見抜いて監督に勧めるなど、映画音楽で手腕を振るわせた。
斎藤は姪(姉の二女)と結婚し、親類にあたる。
没後の63年、親しかった作曲家、演奏家、映画人らによる追悼文集「ヨッちゃん 吉澤博さんの思い出」が編まれた。
昭和60年(1985年)9月8日没、享年77歳。
「大恩人 吉澤博伯父さん」 斎藤 高順
初めて吉澤さんにお目にかかったのは、私が東京音楽学校(現芸大)の研究科を卒業したばかりの頃、学校の先生の紹介で、松竹大船撮影所の音楽部を訪ねた時でしたが、その後ご無沙汰を重ねておりました。
ところがNHKの録音でご一緒した声楽家の女性が、吉澤さんと大変懇意にされて居られることと伺い、ご好意に甘えて吉澤さんのお宅に同行させていただいたのです。
それからは放送等の、私が作曲を担当した番組を、大変関心をもって聴いて下さったそうです。
昭和27年の夏頃でした。突然吉澤さんから相談したい事があると連絡が入り、早速、そのころ笄町にあったお宅を訪門しました。
すると私たちが神様のように思っていた、松竹の小津安二郎監督の映画の音楽を作曲してみないかというお話しだったのです。
夢のようではありましたが、勿論、喜んでお受けしました。
この時の映画が『東京物語』で、その年の芸術祭参加作品でした。
『東京物語』は芸術祭賞受賞のほか、数かずの話題を生み、現在でも時どき上映されたり、海外でも評判を呼んでいる映画史上の名作だったのです。
それまで一度も会った事のない私を、吉澤さんの一言で起用された小津監督がいかに吉澤さんを信用されていたか。
今考えても大変な事だと驚くばかりです。
夢中で作曲した音楽は恥しい限りですが、今聴くと懐しさでいっぱいです。
また映画のシーンとぴったり合っていて、何らの不自然さも感じられないのは吉澤さんの適切な助言に従ったからに違いありません。
これがご縁で、小津監督が亡くなられた昭和38年まで、ほとんどの作品の音楽を任せられ、勿論、その全部を吉澤さんに指揮をしていただきました。
小津監督は仕事を離れてもよく声をかけて下さり、毎年ご自分の誕生日、12月12日には神田の鳥料理屋に呼んでいただき、大晦日には浅草寺にお参りをしてから千住の鰻屋に誘って下さり、正月2日には毎年鎌倉のご自宅に召かれました。大酒豪の小津監督のおかげで、私もかなり強くなったのは当然として、必ず同席なさった吉澤さんが一滴のお酒も召し上がらなかったのは、今でも信じられないほどです。
小津監督との親交が深くていらっしゃったから、不得手の酒席にもおいでになったのでしょうが、同時に私の事を実子のように気にかけて下さったのでは、と心から吉澤さんに感謝しております。
小津監督の紹介で、松竹以外の日活や大映でも作曲をさせていただき、その都度、吉澤さんに打合わせや指揮のお世話にあずかりました。
ところで私は、吉澤さんには仕事以外の事でも大変お世話をいただき、何と、親戚にもなってしまったのです。
昭和30年まで独身だった私に、吉澤さんはお姉様の次女を会わせて下さったのですが、それが実に優しく美しく、私はすぐさまプロポーズしてしまいました。
彼女が現在の妻というわけで、従って吉澤さんは私の伯父になったのです。
ですから伯父の亡くなった今でも、遺族とは親類としてお付き合いをしております。
私は男四人、娘一人の子持ちですがその子たちは皆、吉澤さんと血が繋がっております。
吉澤さんは私に仕事ばかりか、家族まで下さって世を去られました。
吉澤さん、私はこれからもよい仕事をし、立派な家庭を築き上げたいと思っております。
伯父さん、安らかにおやすみ下さい。
「松竹管弦楽団の名指揮者 軟派の“水戸っぽ”」 桜井 武雄
水戸市銀杏坂の中ほどに、昔、吉澤楽器店があった。
そこの御曹子(おんぞうし)の吉澤博君は私と同じ水中(水戸一高)大正15年卒で、故木村伝兵衛水戸市長などと同窓であった。
暴れん坊の多かった水中では、彼はどちらかといえば軟派に属し、音楽をたしなむやさしい水戸ッポであった。
その彼が水戸から姿を消してしばらくしてから、松竹管弦楽団の名指揮者になったといううわさが伝わってきた。
松竹映画の全盛時代で松竹大船撮影所の音楽監督になり、作曲家・指揮者として活躍していたのである。
水中で一級下の真木小太郎君は、東宝演劇部の舞台装置家として名を成していたし、水戸ッポにもこういう分野で多彩な才能を発揮する人が出てきたのである。
その才能発揮の素地は、すでに学生時代から表れていた。
水戸の映画館のうち日活系の泉館で映画の幕間に学生ハーモニカ合奏団の演奏団の演奏があるというので、私も入場券をもらって観覧席に入ると、主に水中生四十人ほどが舞台に並び、吉澤君の指揮でハーモニカの迫力ある演奏を聞かせてくれた。
珍しいのでやんやの拍手かっさいであったが後が悪い。
営業館に学生の身分で出演するとは何事ぞと学校当局からこっぴどく油をしぼられたはずである。
その後も水戸の大工町にあった借楽館で、吉澤君は楽士席でピアノに合わせてバイオリンひきをやっていた。
無声映画の伴奏であるが、連続活劇の伴奏音楽は「天国と地獄」にきまっていたのに、吉澤君らは「スウェデッシュ・ガードマーチ」という曲を選んでやっていた。
私は珍しいので吉澤君からその楽譜を借りて写した覚えがある。
それから吉澤君は志を立てて武蔵野音楽学へ入学、念願の松竹映画の音楽監督になる。
おなじ時期に、松竹映画の脚本部でメロドラマの脚本を多作したので有名になった斉藤良輔君がいた。
彼は旧制水高で私と同級であったが、彼もまた借楽館へ出入りして弁士たちと仲良しになり、いつの間にか水高を中退して姿を消した。
この斉藤君も吉澤君も、ともに水戸の借楽館を足場にして、後にほぼ同時期に松竹入りしたのだから、仲良しだったのではあるまいか。
その吉澤君が、本紙の死亡記事によれば八日に77歳で死去、11日に神田のニコライ堂で告別式が行われたという。
私は学校を出てからこの二人に顔を合わせる機会が一度もなかった。
あのやさしい水戸ッポの吉澤君が敬けんなキリスト者として逝かれたことに、心を痛める水戸の知人も多かろう。
ともに心から哀悼の意を表したい。
トランペット奏者の数原晋さんと